英題:“A Page of Madness” / 原作:川端康成 / 監督:衣笠貞之助 / 脚色:川端康成、衣笠貞之助、犬塚稔、沢田晩紅 / 撮影:杉山公平 / 撮影補助:円谷映一 / 配光:内田昌夫 / 舞台装置:林華作、尾崎千菓 / 監督補助:小石栄一、大杉正巳 / 現像主任:阿部茂正 / 音楽:村岡実、倉嶋暢 / 出演:井上正夫、中川芳江、飯島綾子、根本弘、関操、高勢実、髙松恭助、坪井哲、南栄子、滝口新太郎 / 製作&初公開時配給:新感覚派映画聯盟、ナショナルアートフィルム社
1926年日本作品 / 上映時間:1時間9分(現存版) / 13+
1926年9月24日オリジナル版日本公開
映像ソフト版リリース情報確認出来ず [Amazon Prime Videoのみ確認]
Amazon Prime Videoにて初見(2021/5/11)
[粗筋]
男(井上正夫)は、自らの虐待が原因で心を病んだ妻(中川芳江)のため、罪滅ぼしとして彼女の収容された精神病院で小間使いとして働いていた。
ある日そこへ、ふたりのあいだに生まれた娘(飯島綾子)がやって来た。父が小間使いとして働いていることを知らなかった娘は驚き、一方の男も、娘に縁談があることを知って驚く。
娘は、自分の母が心を病んでいることを婚約者に知られることを怖れた。男はそんな娘のために、何も出来ない己に心を傷める……
[感想]
まだいわゆる“トーキー”、音声も同時に流すスタイルの上映が始まる前の作品である。Amazon Prime Videoにて視聴できるものにはBGMがついているが、これはのちに追加されたものらしい。
こうした“サイレント”が普通であった時代、台詞はシーンの合間に大写しで提示するか、弁士が映像に説明を加えるかたちで補っていた。あいにくとデータが見つからなかったため、本篇にはもともと字幕がなかったのか、意識的に説明を廃したのか解らないのだが、いずれにせよ、いま鑑賞出来るヴァージョンはいっさい言葉が出て来ないため、観る者は役者の口許や表情から会話の内容、話の展開を推測していくしかない。正直、気軽に鑑賞出来る作品ではない。
しかしその一方、未だ技術が発達していない時代の作品だから、と侮っていると、瞠目するほどに実験的で興味深い映像が連続する。あえてコマを落とした表現や執拗なオーバーラップ、鏡などを用いたと思われる歪んだ映像。それらが細かなカット割りで矢継ぎ早に提示されるさまは、まるでそれ自体が悪夢のようだ。
この映像感覚は、本篇から70年近く経過して勃発した、いわゆるJホラーの作品群を彷彿とさせる。特に、こうしたJホラーのムーヴメントの端緒と言われる『リング』の鍵となる《呪いのビデオ》の映像は、本篇を下敷きにしたのではないか、と思えるほどに印象が近い。ホラー映画のブームが一段落したのちも、一部のマニアのあいだで愛好されるフェイク・ドキュメンタリー式ホラーでは未だこうした映像表現を用いているが、或いは本篇こそその源流なのかも知れない。
粗筋の短さからも察していただけるはずだが、本篇の物語はさほど込み入ったものではない――なにせサイレント映画で、説明に大幅な制約がかかるから当然なのだが、それにしても展開は乏しい。だがそのなかにしっかりと、中心となる男の心情の変化、感情を爆発させる契機が巧みに織り込まれている。
近代において、本篇で描かれるようなかたちで心の病に相対することはまずないだろうし、クライマックスでの主人公の行為が看過されたりしないだろうが、そういう面からの批判はもはや意味がない。心を病んだ人びとの狂気を疑似体験させるような映像表現を実現し、それを間近で見てきた男が逸脱していくさまを描き出した説得力は見事だ。映像表現としてのインパクト、質の高さは、100年近く経ったいまの眼で観ても決して褪せていない。
公開当時、一定の興収は得られたものの、製作費に対しては大幅な赤字で終わったという。そのうえ、オリジナルフィルムは倉庫の火災により焼失、完全に幻となっていた。後年、監督の家からネガフィルムが発見、監督自身の再編集を経てふたたび劇場公開されると、海外でも上映されるカルト作となった。この経緯からしても、まさしく“早すぎた作品”なのだろう。
関連作品:
『殺人狂時代(1967)』/『カッコーの巣の上で』/『K-PAX 光の旅人』/『ミッドサマー』
『街の灯』/『雨に唄えば』/『アーティスト』
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