『TAJOMARU』

『TAJOMARU』

原作:芥川龍之介『藪の中』 / 監督:中野裕之 / 脚本:市川森一、水野力也 / プロデューサー:山本又一郎 / 撮影監督:古谷功 / 美術:林田裕至 / 照明:高坂俊英 / 装飾:坂本朗 / ヴィジュアルディレクター:柘植伊佐夫 / 編集:掛須秀一 / 衣装:千代田圭介 / 音響効果:柴崎憲治 / 音楽プロデューサー:古川ヒロシ / 音楽:大坪直樹 / 出演:小栗旬柴本幸田中圭松方弘樹萩原健一池内博之、やべきょうすけ、本田博太郎近藤正臣山口祥行綾野剛須賀貴匡 / 制作プロダクション:トライストーン・エンタテイメント / 配給:Warner Bros.

2009年日本作品 / 上映時間:2時間11分

2009年9月12日日本公開

公式サイト : http://www.tajomaru.jp/

ユナイテッド・シネマ豊洲にて初見(2009/10/15)



[粗筋]

 時は室町。

 代々管領職を務め、都の治安を守ってきた畠山家に、不穏な影が差した。大納言夫妻が急逝、彼らが所有していたという金塊を将軍・足利義政(萩原健一)が欲し、畠山家の息子いずれかに大納言夫妻の娘・阿古(柴本幸)と早急に祝言を挙げて家督を継ぎ、金塊を献上するよう要求してきたのである。

 阿古と畠山家の長男・信綱(池内博之)と次男・直光(小栗旬)とは幼馴染みであり、小さい頃から惹かれ合っていた阿古と直光は婚約を結んでいる。本来、家督は長男が継ぐべきものだが、将軍が提示した条件はまるで阿古との婚姻を以て継承権を与える、と信綱の耳には聞こえた。もともと阿古に想いを寄せながらも、弟に譲っていた信綱の胸に、このとき疑心暗鬼の火が宿る。

 対する直光にとってはさほど難しい問題とは思えなかった。もとより家督を継ぐことなど遙か昔に諦め、阿古と添い遂げることだけを望んでいた直光は、家名は兄に、財宝は将軍に献上すれば済むと考えていた。

 しかし、直光の想いとは裏腹に、事態は最悪の展開を迎える。寺にて斎戒のさなかにあった阿古を、信綱が手籠めにした上で攫ってきてしまったのだ。直光は阿古を連れ出すと、景時(近藤正臣)をはじめとする少数の家来を従えて出奔する。

 直光と阿古が急激な成り行きに疲れ、眠っている隙に、景時らの前に現れたのは、桜丸(田中圭)。かつては身寄りも名前もない飢えた子であったが、直光の計らいにより召し上げられ、以来兄弟同然に育ってきた男である。だがこの男こそ、信綱に阿古を拐かすようそそのかした張本人であった。桜丸は計画を成し遂げるべく、景時ら随身を斬り伏せると、直光らのもとへ急ぐ。

 だが直光と阿古は、既にその場を離れていた。突如行方をくらました景時達を案じながら、信綱の追っ手を怖れて移動を始めたのである。放浪すること数日――そして直光は、多襄丸(松方弘樹)と遭遇した……

[感想]

 日本の誇る巨匠・黒澤明が『羅生門』として映画化したことのある、芥川龍之介の代表作『藪の中』を、ベテラン脚本家である市川森一が中心となって大胆に翻案した作品である。

 しかし、作品を観終わって感じるのは、何よりも“小栗旬”という、極めて脂の乗った情熱に富む俳優の魅力を引き出すために作られた映画、というイメージだ。自らの信念と第三者の思惑との大きすぎる溝に翻弄され、激し、動揺し、壮絶な決意を固める直光=多襄丸というキャラクターの多彩な魅力はそのまま、小栗旬という俳優の熱を籠めた演技を堪能する絶好のシチュエーションとして機能している。序盤で見せる穏やかさから動揺へ、愛する阿古の予想を覆す言動による絶望、“多襄丸”という男に成り代わって以来の諦念を漂わせながらも清々しい表情、そして終盤に見せる激情に至るまで、小栗旬が見せる渾身の演技こそ本篇の見所の最たるものだ。

 とは言い条、どれほど主人公の俳優が渾身の演技を披露したところで、周囲の俳優が雑な演技をしていたり、物語自体に説得力を欠けば、魅力も色褪せる。その点、本篇は申し分のない仕上がりだ。哀しい境遇に悲嘆に暮れながらも、やがて異様なまでの芯の強さを示す阿古姫。貧しい生まれからすれば恵まれた境遇にあったことを自覚しながら、幼少より将軍の男色の餌食とされたことを感じさせる怯えと狂気を取り混ぜた雰囲気を醸し出す桜丸。周囲を翻弄しながら、手出しの出来ないほどに善悪の彼我を超越した貫禄を示す将軍。登場は短いが、弟への嫉妬と野心とをストレートに示す兄・信綱。“多襄丸”となった直光を慕う盗賊仲間たちに至るまで、きちんと作りあげられた人物たちが織り成す謎とその解き明かされる様が、ドラマを重層的に膨らませ、主人公・直光=多襄丸の多彩な表情に説得力をもたらしている。

 作品としての完成度は極めて高いが、だが幾つか残念なポイントがあるのも事実だ。

 折角タイトルに冠されているのに、直光が多襄丸になってからの活躍、失望しながらもその暮らしを楽しんでいる様が描き足りないように感じられる。確かに描かれてはいるのだが、その前提部分の怒濤のように押し寄せる不運と並べると、いささか分量が足りないように思われた。道兼ら盗賊仲間たちが多襄丸を慕い、終盤で見せるような行動に至るには、もう少し事実を補う必要があったように思う。

 また、殺陣がやや少なめで、工夫に乏しいのも勿体ない。分量、バランスという意味では絶妙なのだが、クライマックスにて、技術や武器の能力の部分で矛盾を来している、充分にその設定を活かしていない箇所があるために、折角の見せ場がやや不自然な印象をもたらしている。

 そしてもう一点、エピローグ部分を“多襄丸”のモノローグを主体にあっさりと綴ってしまっているのが物足りなく思われた。クライマックス前後の彼の主張に合わせて、敢えてそうしたのだろう、とは察せられるのだが、やはり折角これほどの男っぷりを披露したのだから、最後にもうひとつ啖呵を切って欲しかった。

 だがこれらは、他の部分がきっちり描かれているからこそ感じる嫌味だ。提示されている表現にほとんど物足りなさを感じず、そこから拡がる部分をもって見せて欲しかった、と高望みするからこそ出て来る思いである。観ているあいだに味わう主人公への共感、苛立ち、多くの謎に対する疑問、それが解き明かされている過程の面白さと溢れてくる感動は極上であり、よく練り込まれ奥行きがありながらも決して晦渋ではない、優れた娯楽映画の体を為している。

 一時期、すっかり停滞していた時代映画だが、若い才能が集ってその新たな魅力を模索する流れが生じている。そんな中にあって、本篇はひとつの極みに達した里程標的作品と言っていいだろう。そして、恐らく長きに亘って活動を続けるであろう小栗旬という俳優の、初期を代表する映画となるに違いない。

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