原作:山田太一(新潮文庫・刊) / 監督:大林宣彦 / 脚本:市川森一 / 製作:杉崎重美 / プロデューサー:樋口清 / 撮影:阪本善尚 / 美術:薩谷和夫 / 照明:佐久間丈彦 / 編集:太田和夫 / 録音:島田満 / 音楽:篠崎正嗣 / 出演:風間杜夫、秋吉久美子、片岡鶴太郎、永島敏行、名取裕子、入江若葉、林泰文、奥村公延、角替和枝、原一平、栩野幸知、桂米丸、柳家さん吉、笹野高史、ベンガル、川田あつ子、明日香尚、中山吉浩 / 配給:松竹
1988年日本作品 / 上映時間:1時間48分
1988年9月15日日本公開
2012年1月25日映像ソフト最新盤発売 [DVD Video:amazon]
『80年代ノスタルジア』(2012/5/12〜2012/6/8開催)にて上映
初見時期不明(テレビ放映時だったような)
神保町シアターにて再鑑賞(2012/05/24)
[粗筋]
原田英雄(風間杜夫)にとって、それは奇妙な日だった。前々からいい仕事仲間だったはずの間宮一郎(永島敏行)から、原田が別れたばかりの元妻に懸想しており、これから積極的にアプローチするつもりだと告げられる。前々からその動向を気にしていた同じビルの別の部屋に暮らす女が初めて訪問してきて、一緒に飲もうと誘われるが、到底そんな気分になれず拒んだ。
それから間もなく、ふと出来た空き時間に、原田は久しぶりに故郷である浅草に足を向ける。両親が事故で亡くなって以来、ほとんど足を向けなかった土地は、浅草ビューホテルが建ちいくぶん様変わりしたが、雰囲気は大きくは変わっていない。だが、日暮れのあとにふらりと入った寄席で、落語家(桂米丸)に向かって粋な野次を飛ばす男の顔を目にして、原田は度胆を抜かれた。
男は原田に気さくに声をかけると、自分の家へと招く。男の家の佇まい、そして待っていた妻の姿に、原田はいよいよ言葉を失った。男は原田英吉(片岡鶴太郎)、妻は房子(秋吉久美子)――死んだはずの、原田の父と母だった。
奇妙で愉しい一夜を過ごしたあと、上機嫌で家に帰った原田だったが、あれが現実のこととは思えず、しかし惹かれるものを感じて、今度は日中に浅草を訪ねる。英吉は仕事で出かけていたが、房子は原田を快く迎え入れた。去る間際に、改めて名前を訊ねると、房子はころころと笑って言った。「いったいどこに、実の親の名前を訊ねる息子がいるのよ」
同じ頃、原田は同じビルに暮らす女・藤野桂(名取裕子)と再会した。死んだはずの両親との交流をきっかけに以前より寛容になった原田は桂の訪問を受け入れ、間もなく深い仲となる。
仕事も順調、当人は充実した日々を送っているつもりだったが、しかし彼の身には、明らかな変化が生じていた……
[感想]
以前はさほど映画好きでもなかった私だが、それでも観ていたものはあったし、中には思い入れの強い作品もある。そんな数少ない例外のひとつが、実は本篇だった。劇場ではなくテレビ放送であったと思うが、当時、自分の生活圏からさほど離れていない場所を舞台とし、過去が交錯して生み出される独特の郷愁と、あの頃の自分にはいささかアダルトな展開と描写に魅せられ、あとから原作を読むほどに惹かれた。
なまじ、昔にそこまで惹かれた作品であるせいで、映画を多く観るようになってからは、変に美化しすぎていなかったか、失望する羽目にならないか、という危惧を抱いてしまい、なかなか自分から再鑑賞に臨む気にはなれなかった。とはいえ、いつまでも自分のなかでの評価を曖昧にしておきたくはなかったし、この辺りの作品を劇場で鑑賞する機会は今後減っていくことが予想されるので、神保町シアターの企画上映で選ばれたのを幸いと、ようやく重い腰を上げたわけである。
美化していた部分は、確かにあった。たとえば、作中の現代の側にいる人物は全般に演技が少し陶酔的で、悪い意味で芝居がかっているのがマイナスに作用している。また、クライマックスの展開については、余韻が綺麗になるように頭の中で改竄していたようだった。本篇のクライマックスは意外にも、けっこう派手なのである。
だが、そうした点を考慮しても、本篇は名作であった、と改めて実感した。郷愁に彩られた、良質な“怪談”なのである。
怪談とひとくちに言っても、いわゆる“怖い話”だけが怪談というわけではない。タヌキやキツネに化かされた類や、突然時間や場所を飛び越えてしまった経験など、常識ではうまく説明のつかない奇妙な出来事をも含める。幽霊など微塵も姿を現さなくても怪談は成立するのだ――とは言い条、本篇は紛れもなく既にこの世にない人々が登場するのだが、その扱いは決して恐怖を感じさせない。一風変わった交流が齎す奇妙な手触りは、どこかモダンな話運びのなかにあって、同時に古典的な怪談の味わいを漂わせている。
この奇妙な調和は、エロスの部分においても顕著だ。作中、昼間に浅草を再訪した原田を迎えた房子は、世間話をしながら、夏場で汗だくになった原田の身体を丁寧にタオルで拭い続ける。いずれ解ることだが、房子自身は原田を我が子と認識しているから行動に躊躇がないが、原田のほうではまだ、死んだはずの母親である、という確信はない。その曖昧な立ち位置で、夏場故に露出した肌に汗を滲ませながら房子に身体を拭われる原田の、実に微妙な表情。このくだりの奇妙な甘酸っぱさのあるエロスは、なかなかに類のない描写である。桂との逢瀬の妖しさも秀逸なのだが、原田と房子のワンシーンは格別だ。
そうして、それぞれに精度の高い描写が最後に生み出す情感がまた素晴らしい。いささか過剰な描写はあるし、先行するシーンが美しすぎるために、派手なクライマックスが妙に中途半端な印象を残しもするが、構成がもたらす意外性と結末の余韻はなかなか忘れがたい。
久々に鑑賞すると、改めて私にとっては(個人的に共鳴する部分が多すぎて)冷静に観られない作品であり、客観的に評価出来ているのかちょっと自信がない――とりわけ、たまたま本篇を再鑑賞したのが二十数年振り、つまり作中において原田が死んだはずの両親と再会するまでに経た時間と同じくらいの間隔だった、というのが象徴的に感じられてしまう。父親との絆を描くために用いられる缶飲料のプルトップや、もしいま同じような話を作るなら変化の象徴はビューホテルではなく東京スカイツリーだろう――など、本篇自体がノスタルジーの対象になってしまうことへの感慨もある。
だが、たぶんそういう思い入れの部分を差し引いても、本篇が定石に陥らない、非常にユニークな“怪談”として優秀であることは揺るがないと思う。現代部分に色濃くなってしまった古めかしささえ、むしろ味わい深い。
関連作品:
『透光の樹』
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