原題:“The Artist” / 監督&脚本:ミシェル・アザナヴィシウス / 製作:トマ・ラングマン / 製作総指揮:ダニエル・ドゥリューム、アントワーヌ・ドゥ・カゾット、リチャード・ミドルトン、エマニュエル・モンタマ / 撮影監督:ギョーム・シフマン,AFC / 美術:ローレンス・ベネット / 編集:ミシェル・アザナヴィシウス、アン=ソフィー・ビオン / 衣装:マーク・ブリッジス / キャスティング:ハイジ・レヴィット,C.S.A. / 音楽:ルドヴィック・ブールス / 出演:ジャン・デュジャルダン、ベレニス・ベジョ、アギー、ジョン・グッドマン、ジェームズ・クロムウェル、ペネロープ・アン・ミラー、ミッシー・パイル / 配給:GAGA
2011年フランス作品 / 上映時間:1時間41分 / 日本語字幕:寺尾次郎
第84回アカデミー賞作品・監督・主演男優・衣裳・音楽部門受賞(脚本・助演女優・撮影・美術部門候補)作品
2012年4月7日日本公開
公式サイト : http://artist.gaga.ne.jp/
TOHOシネマズ六本木ヒルズにて初見(2012/04/12)
[粗筋]
1927年、無声映画華やかなりしころのハリウッド。
映画俳優ジョージ・ヴァレンティン(ジャン・デュジャルダン)が、自らの主演最新作のプレミア公開が行われた劇場の外で記者相手のリップサービスをしていると、野次馬のなかから弾き出された女性にぶつかった。一瞬、その場に漂った不穏なムードを、ジョージは機転を利かせてあしらい、彼のファンと思しい女性は興奮のあまり、公衆の前でジョージの頬にキスをする。
このハプニングが新聞の紙面を飾ったあと、ジョージの新作撮影の現場に、彼女――ペピー・ミラー(ベレニス・ベジョ)は現れた。ダンスシーンのエキストラとして参加したのである。
だが、彼女が加わったシーンで、ジョージはなかなかしっくりとくる演技が出来ずに、現場を離れてしまう。ペピーはそんな彼の楽屋に密かに踏み込んできた。ジョージが留守のあいだに、衣裳と戯れていたペピーに、彼は「女優を志すなら、他と違う特徴が必要だ」と、彼女の右上唇に小さなつけぼくろを書いた。
ジョージの助言も奏功して、ペピーはエキストラから、クレジットに名前が載る端役に進み、そして少しずつスターへの階段を駆け上がっていく。それを待ち受ける立場のジョージだったが、変化は突如として訪れた。――トーキーの出現である。
サイレントに馴染んでいたジョージは、こんなものに未来などない、と撥ねつけたが、ジョージが所属するキノグラフ社の社長(ジョン・グッドマン)はサイレント映画の製作一切を中止、以後すべてトーキーにする、という大胆な戦略を打ち出した。ジョージはその提案に反発し、キノグラフ社を飛び出して、自らサイレント映画を撮ることを決心するのだが……
[感想]
21世紀にして製作されたサイレント映画、それもフランスを中心としたスタッフ・キャストが、無声映画末期のハリウッドを舞台に採り上げた作品――と、前提からして現代としては異色だが、しかし何よりも特筆すべきは、本篇におけるサイレントでの表現が、決してノスタルジーや憧れから用いられているわけではない、ということだ。
実は、途中までは個人的に首を傾げることが何度かあった。序盤で最も引っかかったのは、ペピーがジョージの撮影現場にエキストラとして参加、ジョージがそれに気づくくだりだ。予告篇でも用いられている、ペピーが書き割りの向こうでタップの練習をしているのに気づいたジョージが、それに合わせて踊る、という場面だが、ここで流れる音楽には、ステップの音が入っていない。無声映画だから当たり前、と思われるかも知れないが、過去の作品に対するオマージュとしてこの表現手法を採り入れているなら、ポイントとなる効果音をBGMのなかに組み込む、という演出を使うのが普通だ。映画的にも印象づけたい見せ場のはずで、そこでサラッと流してしまったことに、違和感を禁じ得なかった。全体的に、音楽がいささか大袈裟すぎることも、気になった点である。
だが、あるシーンを観た瞬間、はっきりと目を瞠らされた。それはジョージが製作会社の社長から、新しい表現として、トーキーを見せられた直後の場面だ。楽屋の鏡の前でグラスを傾けていたジョージは、天板の上に置いたとき、甲高い音が響いたのに驚く。そして、グラスを弾いて音が出るのに驚き、自分の周囲に音が溢れていることに衝撃を受ける。そんななかで、彼ひとり、声を出すことが出来ない、という事実に愕然とする――すぐにベッドの上でジョージは目醒めるのだが、このくだりを観たとき、色々と腑に落ちるものがあった。
このくだりこそまさに、本篇がただのノスタルジーでないことの証左である。本篇は安直にサイレントを再現しているのではなく、サイレント映画の時代を表現するために、サイレントという方法を敷衍している。だから序盤の、スクリーンの映像とオーケストラの生演奏でお披露目をしていた頃の映像には、採り入れようがなかった効果音が排除されているのであり、一笑に付しながらもジョージが覚えた危機感を、僅かな効果音で的確に表現している。
いったんそう察すると、本篇の音の表現は実に味わい深い。シーンの情感が変質する切り替わりで無音になる、その呼吸も絶妙だし、何よりも唸らされるのはクライマックスだ――ここに至って、私が序盤で覚えた違和感が、意図的であることを思い知らされる。
こう考えていくと、映像面でのいっそ“あざとい”と言いたくなるほどシンプルな表現の数々も、実はサイレントという方式であってこそ成立する表現を埋め込むための素地作りだった、と解釈出来る。サイレントなので、画面下に常時表示されるのではなく、場面の途中に前画面で提示されるタイプの字幕を用いているが、これについても終盤でなかなかに気の利いた用い方をしている。よくよく考えれば通常の字幕では充分な効果を上げられない演出であり、手法が先なのかアイディアが先なのかは解らないが、実に見事に両者が噛み合っているのは疑いようもない。
本篇は全般に、かなりストレートな隠喩を頻繁に用いている。登場人物の心情に合わせた映画のタイトルが看板を飾っていたり、スターへの階段を駆け上がりつつあるペピーと、まさに転がり落ちようとしているジョージとの対比が表現されるくだりなど、あまりのシンプルさに笑ってしまいそうなほどだが、それはサイレントという、音を制約された手法を採用しているからこそ、映像で伝えられるものはストレートに描き出そうとしているように感じられる。無論、往年のモノクロ映画へのオマージュもそこには籠められているだろうが、決して安易にやっているのでないことも窺えるのだ。サイレントからトーキー移行への流れや、最後の“起死回生”とも言える趣向が、大幅に省略を施しつつも現実のハリウッドの変化と一致しているのも巧妙だ。
表現へのこだわりが強い一方、だからこそ、とも言えるのだが、正直なところストーリーには弱さを感じる。ジョージがペピーに対して抱いた感情や、ペピーの側の意識など、もう少し丹念に描いていたほうが伝わりやすい、と感じられる部分が多々ある。ゆえに、アカデミー賞で脚本賞にノミネートされながらも逃したのは頷けるのだが、同様に作品賞、監督賞を与えられたのも充分に納得がいく。サイレントのみならず、モノクロ時代のハリウッド映画に対する敬意を表するとともに、現代の視点だからこそ可能な物語と表現を追求した、志の高い作品なのである。
関連作品:
『ライムライト』
『雨に唄えば』
『街の灯』
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