待望久しい《百鬼夜行》シリーズ第10作。人を殺した、という記憶に苛まれる女性。不穏な時局のさなかに消えた3つの屍体。忽然と行方をくらませた薬局の経営者。日光を中心にして浮上する不可解な出来事を、古書肆にして陰陽師・京極堂が祓う。
発売当日に購入、ほどなく読み始めたはずなのに、読み終えるのに半年以上を費やしてしまった。もともと長大な作風であるのに、久々となる本書は特に諸々、長い。作業に追われることが多く、読書に割く時間をうまく工面できなかった私には、読み進めるのが厳しい作品だった。多忙の方が手をつけるなら、1日のスケジュールに組み込んでおくことをお薦めする。
それにしても、題名通り、まさしく“ぬえ”のような作品である。説話に登場する“ぬえ”の一部を成す生物の名を掲げた各章で綴られる、奇妙でいて具体的な像を欠く“事件”。それぞれ、別々に進行していたエピソードが、気づけば日光の地に集約され、おぞましい全体像を成していく。
今回、京極堂こと中禅寺秋彦は、なかなかどの“事件”にも関わってこない――そもそも、必要がなければ容喙などしない、という人物だから当然だが、それにしても絡んでこないので、ヤキモキさせられる。榎木津礼二郎も相変わらず“見る”だけでなにかを掴んでしまうのにまともな説明をしないので、成り行きで仕事でもない調査に駆り出された木場修太郎が気の毒で、しかし滑稽でもある。曖昧模糊として全体像の見えてこない“事件”に悶々とさせられるが、お馴染みの登場人物たちはそれぞれの個性を発揮していて、ファンを楽しませてくれる。
だが、やがて訪れる終幕は、色々な意味で意外性のあるものだ。率直に言えば、期待に添わない、という印象を受ける人がいても不思議ではないと思う。しかし、本篇で語られる“事件”の様相は決して、作品の時代背景となる昭和初期に限った話ではなく、現代にも通じるものだ。想像してみれば、本篇で登場人物たちを縛った“ぬえ”という存在は、現代にも生まれる可能性がある。描写が迂遠で輻輳しているからこそ、その生々しさ、じっとりとした性質の悪い怖さを実感的に表現している、と言える。
それでいて本篇の結末には、この時代背景だからこそ描きうる、郷愁もまた滲んでいる。文明が成熟していくことで、社会は整備され、より機能的になっていくが、置き去りにされてしまうものもあることを思い出させる。理知的でありながら情感を残したエピローグは、寂しくも柔らかな余韻を残す。
このシリーズは作を重ねるごとに登場人物が増えて、どんどん追いきれなくなる嫌味がある。まして今回は、シリーズの本流としては17年振りの新作であり、既刊を繰り返し読むような愛読者はともかく、リアルタイムで読んだっきり、という私のような人間は少々ペースに乗りづらい。だが、生きている者は可能な限り登場させるサーヴィス精神は快く、そして「ようやくあの世界が帰ってきた」という安心感をもたらす。同じ理由から、作を重ねるごとに著者の負担は増していくだろうけれど、創作意欲の続く限り描き継いで戴きたい――そして出来れば次作『幽谷響の家』はもう少し早めに発表して欲しい。
ところで本書、すっかり勘違いしていたのだが、“ぬえ”の字は“夜”に“鳥”ではなく、“空”に“鳥”である。
機会がなければ知り得ない漢字であることは一緒だが、前者の方が一般的である、と言い切れるのは、“鵺”は和文フォントなら確実に対応しているが、“鵼”は機種依存文字なのである。
本文の中でも両方の漢字が登場しており、あえて“鵼”にした意味はあるのだが、読むまではそのこだわりが解らない。私自身も勘違いしていたように、たぶん今後もあちこちで勘違いされ、機種依存文字の使用を避けるサイトでは《ぬえの碑》とか《ヌエの碑》とか、ちょっと間の抜けた表記にされてしまうのだろう――それもまた、本篇らしい趣ではある。
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