吉村昭『羆嵐』

『羆嵐』
吉村昭
判型:文庫判
レーベル:新潮文庫
版元:新潮社
発行:1982年11月25日
isbn:9784101117133
価格:693円
商品ページ:[amazon楽天BOOK☆WALKER(電子書籍)]
2024年5月7日読了

 大正3年の北海道、入植が始まって4年ほどの苫前村三毛別集落をヒグマが襲撃した。それから数日間に繰り広げられた恐怖と死闘を、記録文学を多く著した吉村昭が詳細な記録と関係者の証言をもとに描き出した。
“Wikipedia3大文学”と呼ばれる、詳細な記述で知られる事件を、インターネット普及の遙か以前に小説としてまとめた作品である。Wikipediaだけでなく、様々な事件を再現VTRなどを絡めて描くテレビ番組でもしばしば題材にされる事件なので、ご存知の方は多いはずだが、さすがに記録文学を多く手懸けた著者の筆だけあって、空気感、緊張感の描写に極めて優れている。
 今でこそ熊の習性を知識として持っている人は若干増えたはず(と信じたい)だが、大正ともなれば知らぬ人ばかりなのも徒然だ。まして、新聞も届かず情報を得にくい土地ではなおさらである。僅かな兆候を軽視し、誤った対処をしたことで最初の悲劇を招き、更なる犠牲をもたらしてしまった当時の住民を笑うことなど出来ないのだが、本篇はその急速に迫る恐怖をまざまざと追体験できる。
 意外だったのは、被害そのものより、その後の対処により筆が割かれている点だ。三毛別川を下った苫前の警察より派遣された救援隊が、住民達には当初この上なく頼り甲斐のあるものに映るが、次第に様々な違和感が兆し、結局は誰もがヒグマの脅威に対して無知で、抵抗力に乏しいことを悟っていく過程は恐ろしくも興味深い。危機管理の軽視と、その事実を実感させられるがゆえの挫折、という流れは、今も各所で似たようなことが繰り返されている。様々な知識の普及と共有で、いくぶんマシになった程度に過ぎない。そのなかで繰り返される希望、羨望、不審、絶望も、飽きるほど繰り返されている。
 最後に事態を終息させるのは、忌避されたアウトローであり、脅威について知悉したプロフェッショナルたったひとり、というのもなかなかに象徴的である。もちろん、きちんと読み解いていくと、ここで登場するプロフェッショナルの山岡銀四郎も、実は救援隊の存在があればこそ、ああした策に打って出たことが解り、まるで無意味ではなかったのだけれど、銀四郎(のモデルになった人物)がいなければこの地域はもっと広範囲に人の住めない状態が続いていたかも知れない。
 ある意味人間の、極めてリアルな感情の変化が活写された本篇だが、なかでもいちばん魅力的なのがこの銀四郎であることも疑いない。モデルとなった実在の人物はここまで粗暴ではなかった、という話もあるようだが、本書に描かれた人物像の破滅的で、しかし説得力に満ちた人物像は強烈な印象を残す。常に単独で山に分け入り、ごく僅かな油断が命取りに繋がる過酷な環境に身を置く人間の生命力に圧倒される心地がする。
 記録文学と言い条、既に100年以上経たいまとなっては歴史小説の趣もある。あまりに克明でおぞましい惨劇の描写と迫りくるヒグマの恐怖感はホラーとも言え、人々が己の無知と無力を痛感し打ちひしがれていく様は寓話の色彩を帯びる。そして並行して、自身の闇を覗かせながらも着実にヒグマに肉迫していく銀四郎の姿にはハードボイルド小説の醍醐味さえある。文庫版で250ページ足らずという比較的コンパクトな尺ながら、極めて密度の高い作品である。ただ、銀四郎の実像や劇中で交わされる会話や登場人物の心情など、フィクションと推測されるポイントも多いので、いわゆる《三毛別ヒグマ事件》の実像を知りたいなら、本書に参考文献として掲げられている木村盛武の文章を復刻書籍化した『慟哭の谷』や、そうした文献も含むしっかりとした取材に基づくルポルタージュを読むべきだと思う。Wikipediaだけでなくてね。


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