いっとき、『放課後メイド探偵』なんて企画を走らせようとしてたくらいには、一時期メイドさんに拘っていたことがある。……未だに諦めたわけではないがそれはそれとして。
メイド、という題材の面白さは、雇い主との関係性、そのなかでそれぞれがどんなスタンスを選択するか、そうした要素が入り乱れて紡ぎ出されるドラマだと考えている。ひたすら自身の主人に忠実であろうとする尊さ、不本意な境遇であればこその懊悩、そうしたものをいっさい受け入れ、あえて本邦に振る舞うようなメイドもいい。画一的なユニフォームの中に、各々が辿ってきた半生や、育んできた個性が弾ける、そういうものに惹かれる。
だから、巷に溢れかえったメイド喫茶やそれに類するサーヴィスには触れなかった。サーヴィスとしての魅力や、文化として定着したそれらを否定する気はないけれど、私が見たい、感じたい“メイド”像は間違いなくそこにはない。「お帰りなさいませご主人様」と迎え入れられ、様々な趣向で非日常の愉しさを味わう、というのも面白そうだとは思うけれど、恐らく私の場合、違和感の方が優って没頭出来ない。
かといって現実にメイドさんを雇う財力も甲斐性もなく、そもそもそれ以前に現実に雇うメイドさんは“自分”という要素さえ夾雑物に感じてしまう私みたいな輩が願望を充足させるのは、フィクションの世界しかない。
こういう発想で接するフィクションの最高峰は、たぶん森薫による漫画『エマ』だ。
……いちおう映画についてのコラムなのに漫画を挙げるのは反則だ、とは思うが、実際、“メイド”という様式美を忠実に追い求めると、これ以上に完璧な作品は、少なくとも私は寡聞にして知らない。
ヴィクトリア朝のイギリス、という、日本に浸透したメイド文化の原型となった時代背景。価値観の変わりゆく時代ながら、強固な階級意識に阻まれるロマンス。そして何より、使用人としての節度を理解したヒロインの佇まいがいい。
同じ時期にいわゆるメイドを題材とした作品は多々現れたが、どうしてもパロディ的なものになりがちだった。日本で作られたメイド主題のフィクションとしては、『エマ』は恐らくずっと金字塔のひとつに数えられるのではなかろうか。同じ著者の短篇集『シャーリー』もいいよ。
では映画ならなにが挙げられるか? と考えると、これが実に難しい。
この“メイド”というものを愛でる文化は、日本で先鋭的に発達したもので、海外、こと映画のなかで意志的に“メイド”に焦点を当てた作品、というのはあまり思い当たらない。むろん、細かいところまで調べていけば見つかるとは思うが、日本にまで渡ってくる作品は稀のようだ。
ひとつ思いついたのは『ゴスフォード・パーク』だ。殺人事件を通して、階級制度が崩れつつあったイギリスの姿を描き出しているが、それゆえに“メイド”だけに注目しているわけではない。貴族と使用人、それに様々な形で成り上がった人びと、それぞれの姿を点綴して大きなドラマを形作る群像劇であり、あくまで“メイド”はその一要素だ。そもそもこの作品、日本におけるメイド文化のイメージで接すると、あれがただの幻想に過ぎないことを突きつけられる作品でもある。恐らく本篇こそが真実に近いのだろうけれど。
この作品に限らず、欧米における“メイド”の描き方はやはり日本とは違う。ヴィクトリア朝を舞台にした作品、使用人を数多く雇う裕福な家庭が出てくるような作品に登場はしても、基本はやはり脇役、仮に焦点が当たるとしても、たとえば『8人の女たち』や『燃ゆる女の肖像』のように、ジェンダーの問題が絡む描き方になってしまうのかも知れない。
だいたい私は“メイドさん”というテーマが好きだが、それだけを狙い撃ちで観る映画を選ぶことはしていない。そこに絞って作品を挙げようとしても難しいのは道理だろう。
ただ。
1本だけ、こういう私の定義、嗜好に当て嵌まる、完璧な“メイドさん映画”が思い当たる。
藤沢周平原作/山田洋次監督/永瀬正敏主演『隠し剣 鬼の爪』である。
かなり大真面目に言っている。舞台は幕末に近い日本、劇中に登場するのは“メイド”ではなく“女中”だが、私の理想とするメイドさんの表現がみっちり詰まっている。
“メイドさん”にあたるのは、松たか子が演じるきえ。主人公である永瀬正敏演じる片桐宗蔵の家で働く女中として登場する。不祥事で石高を減らされた片桐家は貧しいが、きえは献身的に仕え、片桐家の者も家族のように遇している。
やがてきえは嫁いで片桐家を出るが、先方でこき使われ、病に倒れても医者に診せてももらえない。見かねた宗蔵は外聞も憚らず、病に伏せるきえを片桐家に連れ戻す。
このあとにも色々あるが、この明確な主従の関係がありながらも、その役割に敬意を払い、気遣う描写が実に美しく快い。
この作品、本筋は藤沢周平の《隠し剣》と呼ばれる連作の1篇をベースにしていて、本筋は必殺剣を巡るドラマにある。しかし山田洋次監督は脚色に際して『雪明かり』という別の短篇をミックス、そのなかで描かれた主人と使用人との幸福な関係性を落とし込んでいる。このふたつのエピソード、いずれも宗蔵が絡んでいることを除けば別々に進行するが、揃うことで、武士として生きていく難しさ、ちょうど幕末期に生きる彼らの価値観や生活が変わっていく過渡期を、情緒豊かに活写した。
故にこの作品においても、主題は“メイドさん”ではない――はずなんだけど、山田洋次監督が先行作『たそがれ清兵衛』で確立した、リアリティのある武家社会像と、その題材に誠実に向き合うスタンスが、結果として私の理想に近い“メイドさん”とその物語を巧みに抽出してしまった。だから恐らく、山田洋次監督はこんなこと狙っていなかっただろうし、言われたくもないかも知れないけれど、私はあえて本篇を、日本で生まれた“メイドさん映画”の理想型、と呼びたい。
本当に、いまのところ実写では、これ以上の好例が思い浮かばないのだ。
……なおこの記事、前々からどこかで書きたい、と思っていたのを、せっかくブログで映画絡みのコラムを書くことにしたのなら、と考えて仕上げた。すぐ書けるネタだったから手をつけただけで、5月10日が一部のひとのあいだで《メイドの日》と呼ばれている、というのは、半分近く書いてから知った。
そのせいで引っ込みがつかなくなった。お陰で、他に書くことがあったらストックにするつもりだったのに、放出せざるを得ないではないか。
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