『ダンス・ウィズ・ウルブズ』

TOHOシネマズ日本橋、スクリーン3入口脇に掲示された劇中ウィジュアル。(※『午前十時の映画祭10-FINAL』当時) ダンス・ウィズ・ウルブズ [Blu-ray]

原題:“Dances with Wolves” / 原作&脚色:マイケル・ブレイク / 監督:ケヴィン・コスナー / 製作:ケヴィン・コスナージム・ウィルソン / 製作総指揮:ジェイク・エバーツ / 撮影監督:ディーン・セムラー / プロダクション・デザイナー:ジェフリー・ビークロフト / 編集:ウィリアム・ホイ、チップ・マサミツ、スティーブン・ポッター、ニール・トラヴィス / 音楽:ジョン・バリー / 出演:ケヴィン・コスナーメアリー・マクドネルグレアム・グリーン、ロドニー・A・グラント、フロイド・“レッド・クロウ”・ウェスターマン、タントー・カーディナル、ロバート・パストレリ、チャールズ・ロケット、モーリー・チェイキン、ジミー・ハーマン / 配給:東宝東和 / 最新映像ソフト発売元:GAGA

1990年アメリカ作品 / 上映時間:3時間1分 / 日本語字幕:戸田奈津子

1991年5月18日日本公開

午前十時の映画祭10-FINAL(2019/04/05~2020/03/26開催)上映作品

2020年1月17日映像ソフト日本最新盤発売 [DVD Video:amazonBlu-ray Discamazon]

劇場にて初見(初公開当時、日付の記録なし)

TOHOシネマズ日本橋にて再鑑賞(2020/01/18)



[粗筋]

 1863年南北戦争の激戦地テネシー州で、北軍の中尉ジョン・ダンバー(ケヴィン・コスナー)は脚に重傷を負った。脚を切られたくない一心で野戦病院を抜け出し、最前線に趣いたダンバーは、中間地帯を馬で疾走して南軍を小初する自殺行為に及ぶ。だが、この行動が膠着状態にあった戦況を動かし、北軍はこの最前線を制圧、図らずもダンバーは戦功を上げた結果となった。

 傷が癒えたダンバーは“生きた伝説”扱いされ、自分の望む駐屯所に赴任することを許された。いちどは生きることを諦めたダンバーは、失われる前に“未開の地”をその目に焼き付けることを望む。

 ダンバーは指示を受け、サウスダコタ州にあるセッジウイック砦へと趣いた。だがそこは、激しい戦いの痕跡はあったが、人の気配は既にない。しかしダンバーは馭者に自分の荷物を下ろさせ、ここに留まることを決意する。

 最初のひと月は砦のなかの整理と、周辺の視察を繰り返した。やはりあたりにアメリカ人の姿はなく、砦に現れるのも、遭遇を夢見ていたバッファローの群の代わりに、白い足先が特徴的な狼が顔を見せる程度だった。

 しかし、そんなダンバーの様子を、砦からほど近い場所にテントを設けるスー族たちが監視していた。無人の砦にひとりで留まるダンバーを訝った彼らは、協議の末に、ダンバーと何らかのかたちで接触を図るべきだ、という結論に達する。

 スー族たちの存在を知ったダンバーもまた、同じ結論に達していた。軍服に身を固め、アメリカの国旗を掲げてスー族の野営地に向かったダンバーは、その道中、血を流して悄然とするスー族の女を発見する。気を失った彼女に治療を施し、野営地に運ぶと、その日は話し合いもせずにダンバーは引き返す。

 女を送り届けたダンバーをスー族の若者たちは拒絶したが、酋長はダンバーの善良さを確信し、改めて使者を送り対話を求めてきた。そうして砦にやって来た使者“蹴る鳥”(グレアム・グリーン)と“風になびく髪”(ロドニー・A・グラント)を、ダンバーは歓待する。身振り手振りで意思の疎通を図り、自分が砦に留まる理由を語り、食糧やコーヒーで彼らをもてなした。

 手探りながらもダンバーはスー族と友好を温めていく。次第に彼らが心を許してくれるのを感じながらも、しかしダンバーにはなかなか打ち明けられないことがあった――いずれアメリカ軍がこの地にやって来て、“インディアン”の追放に及ぶだろうことを。

[感想]

 かつて西部劇において、アメリカ先住民――いわゆる“インディアン”は排斥の対象だった。入植者に敵意を露わにし、開拓を阻む彼らは、しばしば奴隷として扱われることもあったが、映画のなかでは野蛮な敵役として描かれることが多かったらしい――“らしい”と表現を曖昧にしてしまうのは、西部劇の黄金時代にリアルタイムで接していたわけではなく、衰退しきったあとで知識として往年の名作から西部劇に触れていった私の感覚では、そもそも物語のなかに“インディアン”が登場してくる印象がないのだ。時代の流れのなかで、あまりにも偏見に満ちた描写のあるものは名作の列から弾かれていったのか、そもそもそういう偏見と距離を置いているからこそ後世に残る傑作となったのか、私には解らないが、少なくとも私の好きな西部劇のなかでは決してそこまでステレオタイプな“インディアン”は姿を現さない。

 だがいずれにせよ、南北戦争前後の時代を背景とする西部劇で、先住民は脇役であり、異教の悪役だった。本篇のように、中心的に採り上げられることは多くなかったし、ジャンルとして衰退してしまったいま、西部劇の文脈で描かれる“インディアン”はこれが最後になるのかも知れない。

 視点人物はいわゆるアメリカ人だが、そもそもアウトローの傾向がある人物だ。脚を切断されたくない一心で野戦病院を抜け出し、自暴自棄になって最前線に飛び出した挙句、幸運から英雄に祭りあげられた。そして赴任先を選んでいい、と言われて楽な拠点を選ぶのでも名誉ある最前線を選ぶのでもなく、未開地を希望する。既にいちど死を覚悟したからこそ、あえて“消えていく光景を目に焼き付けたい”と思った、と劇中で理由を語っているが、先住民たちを排除していた時代にあって、その思考じたいが既に異端だ。

 そういう人物だからこそ、赴任先の砦に現れた“インディアン”たちの目的を見極め、交流を試みた。もし砦にひとが残っていて、第三者の意見が介入するような状況だったら、本篇の物語は成立しなかった。

 この作品における先住民の描写も、実際にその伝統を引き継ぐひとびとの目で見ると噴飯物の部分もあるそうだが、1篇のフィクションとして捉えると、充分に誠実で丁寧だ。ステレオタイプな“インディアン”像をなぞったかのように凶暴なポーニー族も存在する一方で、主人公ダンバーと接触し交遊を深めていくスー族は彼らなりの文化を固持しつつも、異文化に対して理性的な振る舞いをする。無人となった砦にひとり居座ったダンバーに対し、攻撃を仕掛けようとする血気盛んな者もいる一方で、冷静な主張をする者もあり、割れた意見は集会で統一を図る。そうしてダンバーの人となりを見極め、次第に友人関係へと発展させていく。

 もともと欧米人としては寛容だったダンバーと、穏健な部族だったからこそ成り立つ交流は当初、非常に手探りで、傍目にも見てとれる誤解やもどかしいすれ違いが笑いを誘う。しかし、お互いに理解し合おうとしていることを悟り、誠実に向き合った末、やがて意志を通じ合わせたときの昂揚感は秀逸だ。ダンバーが遭遇を夢見、スー族が生活に必要な儀式として到来を待ち望んでいたバッファローの群れに、力の限り臨むダンバーとスー族の姿で彩られるクライマックスはあまりにも壮絶で美しい。

 この作品で衝撃的なのは、終盤に至ると、こちらの見方が変わってしまっていることだ。序盤こそ、野蛮なポーニー族の振る舞いに慄然とさせられるのだが、劇中のスー族の姿を見届け、ダンバーとともに理解を深めたあとの出来事に、多くのひとは感じるはずだ――西欧人たちの言う“インディアン”よりも、西欧人たちのほうが遥かに野蛮だ、と。遊牧して暮らすインディアンたちが生活の糧として余すことなく活用するバッファローを、皮や舌といった一部だけ剥いで放棄し、そんなスー族と理解を深め合ったダンバーに対して苛烈な仕打ちをする姿は、はっきりと醜い。

 いっそ露悪的に描き出された“アメリカ人”たちの描写は自己批判であり、やもするといまなおアメリカ人、ひいては自身がより秀でた文化を持つ、と驕る多くの人々への警鐘とも受け取れる。あらゆる部族がスー族のように寛容ではないだろうし、仮にそうだとしてもダンバーのように真摯に向き合い理解を深められる保証はなく、そこに本篇のユートピア幻想も覗くが、本篇で描かれるような振る舞いが相互理解をもたらさない、という事実は明確だろう。

 本篇には失われ、或いは奪われてしまった世界や価値観への哀惜、或いは贖罪の想いが籠められている。前述したように、これでも実在のアメリカ先住民たちの目には不自然な描写、多くの誤解が見受けられるようだが、それは決して大きな問題ではない、と思う――むしろ、その描写にしばしば往年の西部劇に観られる“インディアン”の特徴を残しているからこそ、本篇には意義がある。異なる文化を認めることの難しさ、尊さを描きながら、もはや取り戻せないものを敬意をもって再生を試みた、美しい挑戦だからこそ、こんなにも優しく、心躍らせる傑作になったのだろう。

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