『ディア・エヴァン・ハンセン(字幕・TCX・Dolby ATMOS)』

TOHOシネマズ日本橋、スクリーン8入口脇に掲示された『ディア・エヴァン・ハンセン』チラシ。
TOHOシネマズ日本橋、スクリーン8入口脇に掲示された『ディア・エヴァン・ハンセン』チラシ。

原題:“Dear Evan Hansen” / 監督:スティーブン・チョボスキー / 原作&脚本:スティーヴン・レヴェンソン / 製作:マーク・プラット、アダム・シーゲル / 製作総指揮:マイケル・ベダーマン、スティーヴン・レヴェンソン、ステイシー・マインディッチ、ベンジ・パセック、ジャスティン・ポール / 撮影監督:ブランドン・トロスト / プロダクション・デザイナー:ベス・ミックル / 編集:アン・マッケイブ / 衣装:セキナー。ブラウン / キャスティング:ティファニー・リトル・キャンフィールド、バーナード・テイシー / 音楽:ベンジ・パセック、ジャスティン・ポール、ダン・ロマー / 出演:ベン・プラット、ジュリアン・ムーア、ケイトリン・デヴァー、エイミー・アダムス、ダニー・ピノ、アマンドラ・ステンバーグ、コルトン・ライアン、ニック・ドダニ / 配給:東宝東和
2021年アメリカ作品 / 上映時間:2時間17分 / 日本語字幕:石田泰子
2021年11月26日日本公開
公式サイト : http://deh-movie.jp/
TOHOシネマズ日本橋にて初見(2021/11/30)


[粗筋]
 社会不安障害を抱えるエヴァン・ハンセン(ベン・プラット)にとって、高校生活は悪夢だった。目立つ能力もなく、人に話しかける勇気もない彼は、まるで存在しないもののように無視されている。夏休みのあいだに骨折した左腕のギブスは、落書きする人もなく、真っさらなままだった。
 母のハイディ(ジュリアン・ムーア)はそんな彼を心配し、セラピーに通わせている。そこでエヴァンは、自分に対する手紙を書くように指南された。四苦八苦しながら学校の図書室で書き上げたエヴァンは、うっかりデータを印刷に回してしまう。
 そのとき、プリンターの前にコナー・マーフィ(コルトン・ライアン)がいた。危うい言動で同級生から忌避されているコナーは、何故かエヴァンの真っさらなままのギブスに落書きをしてくれたが、その代償のようにエヴァンが誤って刷ってしまった自分宛の手紙を奪ってしまった。他人に見られるには恥ずかしすぎる内容の手紙がいつネットにさらされるか、不安に襲われるエヴァンだったが、手紙は予想外のかたちで発見されてしまう。
 ある日、エヴァンは校長室に呼び出された。そこにいたのはコナーの母シンシア(エイミー・アダムス)と義父のラリー・モーラ(ダニー・ピノ)だった。驚くエヴァンに告げられたのは、コナーが自殺した、という事実だった。その彼が、ポケットに唯一遺していたのが、エヴァンの手紙だった。
 それがセラピーの一環でエヴァン自身が書いたことなど思いも寄らないコナーの両親は、それが唯一の遺書と思いこんでいた。そして、そんな遺書を宛てたエヴァンが、コナーの親友だった、と思いこむ。エヴァンは否定しようとするが、左腕のギブスにコナーの名前が書かれていたせいで、誤解を深めてしまう。
 一家の食卓に招待されたエヴァンは、やむなく想像でコナーとの日々を語る。自らの体験を織り込んだだけの漠然とした内容だったが、家庭でも孤立していたコナーの知られざる姿にシンシアたちは感動する。
 ちょっとした優しさと自己陶酔で、死んだ同級生の親友を装うようになったエヴァン。しかし事態はほどなく、彼の想像を超える方向へと転がっていく――


[感想]
 ミュージカルをざっくりとしたイメージで語れば、たぶん“陽気”や“華やか”といった単語が並ぶのではなかろうか。しかしこの作品、粗筋に目を通していただければ解るとおり、明るい要素はほとんどない。
 タイトル・ロールたるエヴァン・ハンセンは特筆すべき能力も個性もなく、いじめられこそしていないようだが、まるで空気のように扱われている。アメリカの青春映画ではよく見るような、ギブスに落書きをする同級生もいないことが、露骨にその孤独ぶりを象徴する。
 しかし、にも拘わらず本篇はしっかりとミュージカルなのだ。お約束の通り、冒頭からエヴァンはその心情を高らかに歌いあげるが、周囲の人びとはまったくといっていいほど反応しない。現実にはエヴァンが何ら明確な行動を起こしていないがゆえなのだろうが、滲み出る心の叫びに誰も関心を持たない彼の境遇を、本篇はミュージカルの体裁を利用して克明に描き出す。一般的なミュージカルのイメージから程遠い設定と物語だが、本篇はしかしミュージカルという表現方法を有効活用して、その心情を剥き出しに描き出している。
 それでもストーリーは終始、ミュージカルらしさがない。交流から生まれる歌はなく、ほとんどが内省的であり、複数の演者が歌う曲でも互いの心情が通じ合うものは少ない。多彩なコミュニケーション手段が確立されながらも、それゆえにしばしば交流が表層的になり、孤独を感じていることを象徴するかのようだ。劇中でコナーを自殺に追い込み、エヴァンが常々感じているものがまさにこうした“コミュニケーションの欠乏”でもあるだけに、その表現は余計に深く沁み入ってくる。
 コナーの遺族に対する優しさと、嘘がもたらす利益ゆえにエヴァンが嘘を重ねていくさまは、切り口によってはユーモラスだが、本篇の場合は痛々しい。しばしばエヴァンの語るコナーとの交流に、エヴァン自身の理想だけでなく、自身の心の叫びまでも重ねているせいだ。だからこそ、エヴァンの放つメッセージが、多くの人々の心を動かした、という事実に説得力が備わる。交流自体は嘘でも、言葉にした心情には真実が含まれていたがゆえなのだろう。真実を知っている観客ですら、エヴァンのこの危うい叫びに共鳴してしまう。
 そのまま嘘が罷り通ればファンタジーだが、本篇の誠実な語り手は、当然のように嘘が次第に破綻していくさまも描いていく。辛いのは、既にその嘘で動かされてしまい、引き返せない者も出てしまうのだ。やがて、もっとも知られたくないひとに知られていく過程は、いかにも現代的で、逃げられない感覚が強烈だ。本篇の構造は隅々まで、極めて同時代的で、いま観てこそ響くものだと思う――その作り手の誠実さは恐らく何年経とうと通用するものだ、と私は感じたが、保証の限りではない。
 ただ惜しむらくは、作り手が現実に真摯で、生真面目であるがこその結末が、ミュージカルとしての爽快感、華やかさに欠ける、ということだ。
 意欲的な内容であるし、エヴァンの境遇やそこから滲み出るメッセージは間違いなく多くのひとの心に刺さる。ただ、どうせミュージカルなら、そしてフィクションであるならばこそ、決着にもっと明瞭な解放、昇華があってもよかったように思う。ここ数年の映画におけるミュージカルのスタンダードとなった感のある『ラ・ラ・ランド』が解りやすい例だが、あの作品も本質的にはハッピーエンドではない。しかし、映画であること、フィクションであることを逆手に取って、苦みを留めながらも昂揚感のあるクライマックスを作り出した。本篇のように、そこを抑えるのもひとつの考え方であり、スタンスであることは否定しないが、支持されるか否か、という点を論じれば、本篇は『ラ・ラ・ランド』にはどうしても及ばない、と感じてしまう(ミュージカル部分の作詞・作曲を手懸けているのは同じチームなのだが)。終わりはこのかたちであったとしても、ミュージカルらしいカタルシスをもうひとつ用意して欲しかった。
 とはいえ、そこに至る過程の表現の工夫、繊細さは間違いなく出色であるし、結末に居心地の悪さを覚えたとしても、随所に綴られるエヴァンや周囲の人びとの心から発せられる言葉、歌声は、たとえ歌詞やメロディを忘れたとしても胸に響き続ける。忘れがたい作品であり、映画におけるミュージカルの現代における優れた結実であることは間違いない。


関連作品:
ウォールフラワー』/『ワンダー 君は太陽』/『ラ・ラ・ランド』/『グレイテスト・ショーマン
キングスマン:ゴールデン・サークル』/『J・エドガー』/『ジャスティス・リーグ』/『あの日、欲望の大地で
白ゆき姫殺人事件』/『イエスタデイ』/『天気の子』/『竜とそばかすの姫』/『SNS 少女たちの10日間』/『心が叫びたがってるんだ。』/『ロケットマン

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