監督、脚本&美術:新藤兼人 / 製作:松浦榮策、新藤兼人 / 撮影:黒田清巳 / 照明:永井俊一 / 編集:榎寿雄 / 録音:丸山国衛 / 音楽:林光 / 出演:乙羽信子、殿山泰司、田中伸二、堀本正紀 / 初公開時配給:近代映画協会 / 映像ソフト発売元:角川映画
1960年日本作品 / 上映時間:1時間35分
1960年11月23日日本公開
午前十時の映画祭9(2018/04/13~2019/03/28開催)上映作品
2001年8月10日映像ソフト日本最新盤発売 [DVD Video:amazon]
TOHOシネマズ日本橋にて初見(2018/12/11)
[粗筋]
瀬戸内海に浮かぶとある島に、家族4人だけが暮らしていた。
島の土地は痩せており、夫(殿山泰司)と妻(乙羽信子)は毎日繰り返し、本土とのあいだを小舟で往復し、水を運ばなければならない。
長男(田中伸二)は朝、母の漕ぐ船で本土の学校に通っている。島にいるあいだは、親を手伝ったり、弟(堀本正紀)と一緒に魚を獲ったりしていた。
ときおり、収穫物を金に換えて、本土で贅沢をするだけの、倹しい暮らし。家族はそんな日々を、ひたすらに重ねていたが……
[感想]
いつになく短めの粗筋だが、これ以上書きようがない。この調子で綴っていくとあっという間に結末まで記してしまいそうなほど、本篇の物語はシンプルだ。
ただし、劇中で説明的な表現はほとんどない。序盤に世界観を象徴したようなテロップが現れるのと、場面の切り替わりに季節を明示するだけで、あとは台詞すらない。いちおう効果音は当てられているし、「よいしょ」という掛け声や、昂った際の泣き声は発しているが、劇中、中心となる家族が言葉で会話をするくだりは出て来ない。
だが、言葉がないからこそ、彼らの淡々とした、代わり映えのない暮らしぶりが透け見える。序盤、夫婦はほとんどずっと、水を汲んでは島の畑に撒く、ということを繰り返している。恐らく島では農耕に利用できるほどの真水がないのだろう、本土に渡っては用水路から水を汲み、小舟に乗せて島へと運び、柄杓で撒く。構図を細かに変えて様々な表情を見せるが、行為自体はほぼ一緒だから、余計にその生活の単調ぶりが追々胸に迫ってくる。説明はおろか会話もないので、描写の意味を観客が能動的に読み解かねばならないからこそ、まるで彼らの生活に同化していくかのような感覚をもたらすのである。
それにしても、何故彼らはここで暮らしているのだろうか。台詞も何もないので、本篇ではその背景を知るよしもない。毎日のように本土に渡って水汲みをしているのなら、いっそ本土で暮らせばいいのに、と観る方は確実に首を傾げるが、彼らはひたすらに同じ日常を繰り返す。終盤で、島暮らしであるがゆえの悲劇が彼らを襲っても同様だ。
必然的にそれは、彼らが島に住み続けるやむを得ない事情を想像させる。或いは、詰まらない意地のようなものなのかも知れないが、その行為と執着自体に透け見える、“それでもここで生きていくしかない”という情念が、観る者からも言葉を奪う。
本篇が描き出すのは、現実的な思考や理性を凌駕する日常というものが確かに存在する、という事実だ。それを大胆なまでに象徴化し突きつけて来るが故に、本篇はシンプルなのに忘れがたい。映画という表現手法だからこその趣向で観る者の感情を揺さぶるそのメッセージ性は、公開60年近く経ったいま観ても色褪せていない。モノクロなのに。
関連作品:
『幕末太陽傳 デジタル修復版』/『砂の器』/『コミック雑誌なんかいらない!』
『ジャイアンツ(1956)』/『東京暮色』/『捨てがたき人々』/『レッドタートル ある島の物語』
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