TOHOシネマズ新宿、ロビーに向かうエスカレーター手前に掲示された『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』ポスター。
原題:“Joker : Folie à Deux” / 監督:トッド・フィリップス / 脚本:スコット・シルヴァー、トッド・フィリップス / 製作:トッド・フィリップス、ホアキン・フェニックス、エマ・ティリンジャー・コスコフ、ジョセフ・ガーナー / 製作総指揮:マイケル・ウスラン、ジョージア・カカンデス、スコット・シルヴァー、マーク・フリードバーグ、ジェイソン・ルダー / 撮影監督:ローレンス・シャー / プロダクション・デザイナー:マーク・フリードバーグ / 編集:ジェフ・グロス / 衣装デザイン:アリアンヌ・フィリップス / 音楽スーパーヴァイザー:ランドール・ポスター、ジョージ・ドレイコリアス / 音楽:ヒルドゥル・グーナドッティル / 出演:ホアキン・フェニックス、レディー・ガガ、ブレンダン・グリーソン、キャサリン・キーナー、ザジー・ビーツ、スティーヴ・クーガン、リー・ギル、ハリー・ローティ、ジェイコブ・ロフランド、ビル・スミトロヴィッチ / ジョイント・エフェクト製作 / 配給:Warner Bros.
2024年アメリカ作品 / 上映時間:2時間18分 / 日本語字幕:アンゼたかし / PG12
2024年10月11日日本公開
TOHOシネマズ新宿にて初見(2024/10/18)
[粗筋]
アーカムに熱狂と総覧をもたらした事件から、2年。
アーカム州立病院の隔離病棟に収容されたアーサー・フレック(ホアキン・フェニックス)は、5人を殺害した罪で裁判が進められていた。彼を担当する弁護士メリーアン・スチュアート(キャサリン・キーナー)は、一連の事件はアーサーの中に生まれたもうひとつの人格である《ジョーカー》が行ったものであり、責任能力を問う方針で臨んでいる。だが警備員や、同じ区画に収容された患者たちは、アーサーの死刑は既定路線と捉え、日々彼をからかう。
ある日、アーサーは軽度の患者たちが収容された区画を通る際、音楽室で合唱する人々のなかのひとりが、アーサーをじっと見つめてきた。その女性は部屋から出てくると、手で形作った拳銃を自らのこめかみにあてがい、引き金を引く仕草をした。
後日、アーサーは特別な計らいとかで、この合唱団に試験的に参加することになった。アーサーを引き連れてきた警備員が歌に熱中するあいだにアーサーは例の彼女と初めて言葉を交わす。
彼女の名はリー・クインゼル(レディー・ガガ)。アーサーが日常的に通っていた階段を使って学校に通い、アーサーが生放送で司会者で殺害した司会者にずっと苛立ち、誰かが銃弾を撃ち込んでくれないか、と考えていたと言う。初めて心を通わせた感覚に、アーサーの心は躍る。自分はもう、孤独ではない――
[感想]
迷走を続けていた《DCエクステンデッド・ユニヴァース》とは距離を置き、全く異なる世界での物語として、DCコミックの悪役でも突出した存在感を放つ《ジョーカー》を題材にし、主人公アーサー・フレックを演じたホアキン・フェニックスに初のアカデミー賞主演男優賞をもたらした『ジョーカー』の続篇である。
前作の評価が、好みは分かれつつも極めて高かっただけに、本篇に対する期待は大きかった。だが、北米で公開されたあとの評判は、芳しくない。2週目には80%を超える減収となり、下げ幅はDCの作品として最悪を記録、各種映画レビューサイトでも、凡庸かそれ以下の点数しか獲得出来ていない有様だ。やや遅れて公開された日本でも、評価は概ね似たように推移している。
あくまでも、自分で観て評価を決める、という方針の私は、これらの評価を知った上であえて劇場に足を運んだが――率直に言えば、こうした評価はやむを得ないことだった、と思う。しかし、それと同時に、本篇は前作で提示した主題、世界観に則っていて、ある意味“正しい”作り方をした作品でもある、と捉えた。
本篇未見で、下調べのためにこのページに巡り会ったひとにも、出来れば自分の目で観て判断していただきたいので、終盤の展開について触れることはしない――が、触れないまま私のこういう結論を説明するのはなかなかに難しい。なるべく終盤が解らないように記すつもりだが、万一にでも察しがついてしまうのを恐れる方は、こんなところを読んでいないで、とりあえず何らかの形で本篇をご鑑賞いただきたい。満足がいく、という保証は出来ないが。
間違いなく言えるのは、本篇が選択した終盤の展開は、前作を念頭に置いた上で予想できるシナリオの範囲内にある。実際、私自身は、概ね予想していたから、そういう意味での驚きはなかった。《DCEU》においてマーゴット・ロビーが素晴らしく魅力的に演じた、ジョーカーの恋人《ハーレイ・クイン》に相当するキャラクターが登場することも、それ自体に意外性はない。
とはいえ、クライマックスに至るまでの過程を、随所にミュージカル的なシークエンスを挿入して表現する、という趣向はかなり意外ではあったし、完成品においても唸らされる仕上がりであった。決して向いていたとは思えないが、曲がりなりにもエンターテイナーを志していたアーサーという男の中に“音楽”が存在するのは頷ける。リー・クインゼルと出会い、訪れた昂揚感を、相応しいスタンダード・ナンバーで表現するのも、一部は妄想として、リアルでは彼の狂気の産物として織り込まれ、不自然さはほとんど感じない。それ自体が、アーサーの宿す狂気の表現として成立しているのだ。
クライマックスへ至る道筋も、極めて着実に組み立てられている。前作での事件、描写も前提として、当事者は社会から隔離された状態でもお構いなしに広がる熱狂と、前作ではまさに霧散した愛が育まれていく悦び。前作の事件を俎上に載せた法廷を目指して、こうした要素がゆるやかに縺れ合っていく。前作時点で想定できた結末だが、積み重ねは着実で、逃れようがない。
本篇の印象を悪くしているのは恐らく、そこに至る過程の緩さにある。確かに事象として、心象として必要な描写ばかりなのだが、ずっとヒリヒリとした焦燥感と静かな緊迫感が漲っていた前作と違い、感情を突き動かす場面に乏しい。私は鑑賞した当日、朝早くに起きたが、何度も欠伸が出たのは寝不足のせいばかりではなかったと思う。
そして終幕にしても、驚き、衝撃はあったが、それが腑に落ちるような感覚がもうひとつ足りない。そこまでの描写も重要だったのは理解するが、もう少し厳しく編集をして、追加すべき描写があったはずである。それでも反発や批判は免れなかっただろうが、作り手にもう一段階の厳格さがあれば、評価は改善とした、と思えてならない。
しかし一方で、そうするのが難しかった、というのも事実だろう。これも詳しくは書きづらいが、本篇は前作の時点から、表現の仕方に自ら固い枷を嵌めている。前作にあった没入感も、本篇の一見意外なミュージカル・タッチも、この枷があったからこそなのだ。前作が傑作として評価された所以の一部が、本篇が厳しい評価を得る理由でもある。
とどのつまり本篇はまさに、劇中に登場する《ジョーカー》そのものを体現しており、その内側に観客を取り込んでいく作品なのだ。《ジョーカー》に共鳴できるひとにとっては、本篇は前作ほどではないにせよ充分なインパクトをもたらすだろう。しかし、本篇を観て落胆し失望する人々は、一方で無自覚のうちに、劇中で《ジョーカー》に感化され狂乱するひとびとと同じところに置かれている。そのことを自覚する人は決して多くなく、気づいた瞬間、戦慄を覚えるはずだ。
そういう意味では怖い作品である、と同時に、どうしようもなく憐れな作品だ。その二面性まで含め、正しく、そして冒険的に組み立てられているのに、どうしたって報われない。私もまた、理解を示しながらも、本篇を積極的に薦める気にはなれないのだ。
関連作品:
『ジョーカー』
『スタスキー&ハッチ』/『ハングオーバー! 消えた花ムコと史上最悪の二日酔い』/『ハングオーバー!! 史上最悪の二日酔い、国境を越える』/『ハングオーバー!!! 最後の反省会』/『デュー・デート ~出産まであと5日!史上最悪のアメリカ横断~』
『ダークナイト』/『スーサイド・スクワッド』
『ザ・マスター』/『容疑者、ホアキン・フェニックス』/『ハウス・オブ・グッチ』/『オール・ユー・ニード・イズ・キル』/『ボーダーライン:ソルジャーズ・デイ』/『ブレット・トレイン』/『ナイト ミュージアム2』/『オールド』
『バンド・ワゴン』/『チャップリンの独裁者』/『スウィーニー・トッド フリート街の悪魔の理髪師』/『ミスター・ガラス』/『神探大戦』
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