英題:“Parasite” / 監督:ポン・ジュノ / 脚本:ポン・ジュノ、ハン・シヌォン / 製作:クァク・シネ、ムン・ヤングォン / プロデューサー:チャン・ヨンファン / 撮影監督:ホン・ギョンピョ / プロダクション・デザイナー:イ・ハジュン / 編集:ヤン・ジンモ / 衣装&スタイリスト:チェ・セヨン / 音楽:チョン・ジェイル / 出演:ソン・ガンホ、イ・ソンギョン、チョ・ヨジョン、チェ・ウシク、パク・ソダム、イ・ジョンワン、チャン・ヘジン、チョン・ヒョンジョン / 配給:Bitters End
2019年日本作品 / 上映時間:2時間12分 / 日本語字幕:根本理恵 / PG12
2020年1月10日日本公開
公式サイト : http://www.parasite-mv.jp/
TOHOシネマズ西新井にて初見(2020/01/21)
[粗筋]
ソウルの下町、半地下の劣悪な環境で、キム一家は暮らしている。全員が定職を失い、現在の収入は内職が頼りだった。
状況が変わったのは、長男ギウ(チェ・ウシク)の友人である大学生ミニョクが訪ねてきてからだった。間もなく留学を計画しているミニョクは、遊学中、自分に代わって家庭教師をして欲しい、と言う。ミニョクは将来、生徒であるパク・ダヘ(チョン・ジソ)と結婚するつもりだが、大学生の友人に頼めば奪われる危険がある。合格こそしなかったものの、受験勉強はしてきたギウなら、家庭教師に適任と考えたらしい。
ギウは美大志望だった姉ギジョン(パク・ソダム)に書類を偽造させ大学生を装い、ダヘの家へと赴いた。だがダヘの母ヨンギョ(チョ・ヨジョン)はろくに書類に目を通すことなく、いちど授業の様子を確かめただけであっさりとギウを採用する。何事も“シンプル”であることを重んじるヨンギョは、ミニョクの推薦に加え、一定の指導力があればギウの素性の真偽など問題ではなかった。
パク家にはもうひとつ悩みがあった。ダヘの幼い弟ダソン(チョン・ヒョンジョン)は個性的な絵を描き、ヨンジョはその才能を伸ばしたい、と考えているが、落ち着きのないダソンに手を焼くようで美術の教師がすぐに辞めてしまうのだという。その話を聞いて、ギウの頭に浮かんだのはギジョンだった。
知人でアメリカ帰りの美術教師、という体でギジョンを紹介すると、これもヨンジョはまったく疑いもしなかった。ネットで仕入れたギジョンの知識を真に受け、絵画療法の専門家ということにして報酬も釣り上げたが、それすらヨンジョは受け入れる。
この一家は与しやすい。そう悟ったキム一家は、更に父のギテク(ソン・ガンホ)を運転手として潜り込ませることを計画する。パク家にはいまも若く優秀な運転手がいたが、ギジョンは雇われて早々、罠を仕掛けるのだった――
[感想]
こんな奇妙な感覚を味わわされる作品はたぶん他にはない。
序盤、いったいなにが始まろうとしているのか、ほとんどの観客は理解できないだろう。なのに、いつの間にか物語に、この奇妙な家族の振る舞いに引き込まれてしまう。いずれ彼らの行動の意図は理解できてくるが、しかしそこで物語は突如として想定外の方向へと舵を切る。それまでもおよそ予測不能の展開を繰り広げる作品だが、終盤の流れを予想出来るひとはまずあるまい。
私は韓国の社会情勢に詳しくはないので、本篇に描かれる強烈な貧困の描写や、富裕層との距離感がどの程度現実に則っているのか判断は出来ない。ただ、こういう貧富差による生活の格差はどんな国にも存在している。恐らくは韓国の現実を反映した表現なのだろうが、窓の外で立ち小便をする人間が見えるような地下に生活する家族と、人間味を欠くほどにすべてが整然とした家に暮らす家族、という対比は貧富の差を巧みに象徴化しており、韓国の文化に関心があろうとなかろうと実感しやすい。
そしてこの作品、登場人物たちが怖いほどに無邪気だ。現在働いている人間を追い出してまでパク家に潜り込もうとするキム一家の行動は悪辣にも映るが、しかしその振る舞いにはあまり悪意を感じない。コメディ・タッチであることも手伝って、彼らはこの“半地下”の暮らしを謳歌しているようにも見えるが、しかし冒頭の段階では4人とも職にあぶれ困窮している。収入を得るためには他人を排除することも厭わないが、それもこれも職を得るためであり、それ以上の悪意は窺えない――終盤手前で大胆な行動に及ぶが、自分たちの行為がどんなかたちで発覚するかに考えが及んでいないあたりに、たちの悪い無邪気さが露わだ。
無邪気、という意味では富裕層であるパク家も似ている。キム一家が矢継ぎ早に入り込んでいくそもそもの隙である母ヨンギョの無頓着さもそうだが、家庭教師として入り込んだギウとあっという間に恋愛関係になる娘ダヘも警戒心があまりに乏しい。この無警戒ぶりは父ギテクも共通している。この広壮な住宅を購入するあたりに経営者としての有能さは窺えるが、金銭に無頓着な妻の判断を疑わない。そして何より、成功者であるがゆえの傲慢さに無自覚で、それがクライマックスに至って強く作用する。
キム家とパク家それぞれの無邪気さに、更にもうひとつの要素が加わり、終盤で物語は混迷を極めていく。それまで描かれた事実や、織り込まれた言動が細かに結びつき、或いはほどけて導き出されるクライマックスは予測が困難でありながらまるで無駄がない。そこに吹き荒れる様々な感情の嵐に、観るものはただただ呑まれるほかない。
だが、何よりも恐るべきは、映画が終わったときに残るものだ。本篇は決して、何らかの教訓をもたらすことなど目指していないのは明確だ――しかし、この慄然たる終幕は、クライマックスの猛然と吹き荒れるような感情とはまた異なり、静かに観る者の心に巣食う。
関心の有無を問わずに惹きこまれ、観終わったときに。恐らく多くの観客の意識下に棲みついてしまう――まさに“取り憑く”映画である。ポン・ジュノ監督、なんて恐ろしいものを作ったのだ。
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