新宿ピカデリー、2階入口脇の壁面にあしらわれた『峠 最後のサムライ』キーヴィジュアル。
原作:司馬遼太郎 / 監督&脚本:小泉堯史 / 製作:大角正、木下直哉 / 撮影:土田正治、北澤弘之 / 美術:酒井賢 / 照明:山川英明 / 編集:阿賀英登 / 衣裳デザイン:黒澤和子 / 録音:矢野正人 / 音響効果:柴崎憲治 / 俳優担当:鈴木康敬 / 殺陣:久世浩 / 助監督:酒井直人 / 音楽:加古隆 / エンディングテーマ:石川さゆり『何処へ』 / 出演:役所広司、松たか子、香川京子、田中泯、永山絢斗、芳根京子、坂東龍汰、榎木孝明、渡辺大、AKIRA、東出昌大、佐々木蔵之介、井川比佐志、山本學、吉岡秀隆、仲代達矢 / 企画&制作プロダクション:松竹撮影所、ディグ&フェローズ / 配給:松竹×Asmik Ace
2020年日本作品 / 上映時間:1時間54分
2022年6月17日日本公開
公式サイト : http://touge-movie.com/
新宿ピカデリーにて初見(2022/6/21)
[粗筋]
慶応三(1867)年、徳川幕府十五代将軍徳川慶喜(東出昌大)は、欧米列強の植民地政策の標的になったこの時代に、国内での軋轢が続くことは日本の滅亡に繋がる、と考え、大政奉還を決断する。しかし、西郷隆盛・大久保利通らは慶喜の処刑なくて王政復古は成立せず、と唱え、擁護派と対立、鳥羽伏見の戦いを皮切りに、新政府軍と佐幕派による内戦が勃発する。
越後の小藩・長岡藩は江戸幕府が開かれて以来の譜代大名である牧野家の意向を汲んでいるが、民の安堵のため、戦争を回避する立場を取っている。しかし、徳川家に対する長年の忠義、あえて政権を返上した慶喜の決断を尊び、その過酷な処罰を要求する新政府軍の判断には反発していた。長岡藩家老・河井継之助(役所広司)は臨戦態勢の会津藩、仙台藩らを牽制しつつ、新政府軍に調停を持ちかけ、中立の立場から北越での開戦を避けるべく奔走した。
だが、そんな長岡藩に対して、新政府軍が抱く不信感は強かった。小千谷の慈眼寺で催された談合で継之助と相対した軍監・岩村精一郎(吉岡秀隆)は、会津討伐のために求めた出兵と献金をのらりくらりと躱し続けた継之助からの嘆願をただの時間稼ぎと断じ、継之助が持参した嘆願書を取り次ぐことを断固として拒絶する。
岩村たち幹部が去ったのちも、継之助は従者の松蔵(永山絢斗)らと門内に留まり、深夜まで嘆願書の取次を懇願した。しかし、いよいよ銃剣で追われ、やむなく継之助たちは引き下がる。もはや長岡藩としては、会津藩らと協力して、戦いに臨むより道はなかった。
長岡藩の兵力七百足らずに対して、各国より兵を募った新政府軍は最大六万を数える。圧倒的な武力の差を補うため、継之助は会談のはるか前から準備を重ねていた。海外の商人から近代兵器を買い入れ、万一のための訓練を兵たちに施し、先代藩主牧野雪堂(仲代達矢)らを予め会津へと退避させ、民が早く避難できるようにも取り計らった。
決して長引くまい、と考えられたこの戦いは、長岡藩の士気の高さと、継之助の戦略によって、新政府軍の予想だにしなかった展開を見せていく――
[感想]
監督は黒澤明監督の助監督を務め、脚本としての遺作『雨あがる』でメガフォンを取った経歴がある。それゆえなのか、本篇にも、その構図や間の取り方、丁寧な時代考証に黒澤映画の影響が窺える。導入、ほぼ動くことのないカメラを前に、政権を返上する意義を臣下たちに熱弁する徳川慶喜の描写、いわゆる小千谷会談での緊迫した駆け引きのメリハリと重厚感など、たとえば『隠し砦の三悪人』や『影武者』に似た香気を感じさせる。
ただ、黒澤作品ほど演出と物語ががっちり噛み合っているか、と問われると少々疑問だ。鑑賞後に調べてみると、本篇で描かれる河井継之助の行動、関係する出来事はほぼほぼ史実に沿っている。ゆえに説得力はあるのだが、どうしても事実を繋いでいる感は否めない。脚本自体は洗練されているため、そこに不自然さはないのだが、演出や細かな描写が続くシーンで魅力を増すような妙味が物足りないのだ。黒澤映画のような重厚感があるのに、いくぶん実が詰まっていないように思えるのは、そのあたりに理由がありそうだ。
とはいえ、近年には珍しいほど丁寧で、時代の雰囲気を巧みに再現した映像、演技には充分に見応えがある。ほぼ全篇にわたって物語の中心にあり、その葛藤や志の高さを見せつける河井継之助を、硬軟わきまえた巧みさで演じきった役所広司はもちろんだが、ほとんど口を聞くことなくその傍に控える永山絢斗演じる松蔵、幼馴染みとして継之助の決断に理解を示し、支え続けた榎木孝明演じる川島億次郎といった主要キャスト、更には大政奉還を決断した徳川慶喜、新政府軍軍監・岩村精一郎、長岡藩先代藩主・牧野雪堂といった、登場シーンが短い登場人物でさえも、充分な貫禄とインパクトを示している。近年のクリエイターたちによるテンポのいい演出やクセの強いキャラター性ももちろん映画として楽しいが、本篇の醸し出す重厚感もまた、映画という表現の魅力として必要なものだろう。
そもそもこの幕末から明治初頭にかけての日本、という時代背景は、極めて興味深い。西欧諸国と呑みこまれぬよう、近代化を進める声が支配的になる一方で、地方文化や庶民の生活、価値観は当然、急激に変化が起きるわけではない。物語の中心となる河井継之助が、国家として生き残るために大きな変革が必要であることを実感している一方、その価値観の軋轢が戦争というかたちで民の生活を危険に晒すことを憂慮するのも当然だ。そして、少なくともこれまで日本という国を、平和のうちに導いてきた徳川家をないがしろにすることも承服しがたい、という継之助の胸中も理解できる。
この複雑に価値観、判断が分裂していく難しい状況で、徳川瀑布の家臣としての矜持を貫いた結果、長岡藩の民衆の生活を奪った、という見方もあるようだが、少なくとも本篇で描かれていることを信じるなら、継之助の判断は西欧列強の植民地政策、という明白な脅威の前で日本が完全に2分する危険を回避しようとした功績は認められる。また彼らの断固たる態度が、徳川家への断罪、という事態を回避した、という点でも評価されるべきだろう。もしこのとき、江戸時代の文化が全否定されていたとしたら、或いは日本文化がいま、世界に対して示すことの出来る独自性を奪っていた可能性だってある――というのはいささか穿ちすぎかも知れないが。いずれにせよ、新しい時代を受容しながら、日本が江戸時代に築いた文化とその矜持を貫いた、という意味で、まさしく河井継之助というひとは、“最後のサムライ”と呼ぶに相応しい。
中盤以降、物語は戦闘へとなだれ込んでいく。このくだりの描写も、いわゆる時代劇と近代的な戦争ドラマの狭間を揺れ動くようで、他の時代とは異なる面白さ――という表現はいささか不謹慎かも知れないが、間違いなく関心を惹くものがある。前列を入れ換えながらテンポよく銃撃を繰り返す鉄砲隊や、大砲による攻撃があるかと思えば、砦の奪還はシンプルな歩兵の突撃で決着がつく。武士のいでたちのまま、継之助がガトリング砲を扱っている姿もなかなかシュールだ。新政府軍も長岡藩側も、その戦い方が奏功することもあれば、思うような成果を上げられない、ままならない様子にリアリティがある――そのあたりがあまりに現実に則しているせいか、戦闘描写に痛快な部分が皆無だし、歩兵の突入は混戦となるので、時代劇のような殺陣の見せ場もないが、あえて外連味を削ぎ落としたことは、いわば武士としての矜持を貫いた継之助にも殉じる作り方、と言えるかも知れない。
決して隙のない作品ではない。しかし、題材とその表現にひたすら誠実であろうとした、一貫性のある作品である。だからこそ、観終わったあと、虚しさとともに清々しさも残すのだろう。
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