新宿ピカデリー、4階下りエスカレーターの手前に掲示された『スパイの妻』大型タペストリー。
監督:黒沢清 / 脚本:濱口竜介、野原位、黒沢清 / プロデューサー:山本晃久 / 撮影:佐々木達之介 / 照明:木村中哉 / 美術:安宅紀史 / 編集:李英美 / スタイリスト:纐纈春樹 / ヘアメイク:百瀬広美 / VFXプロデューサー:浅野秀二 / 録音:吉野圭太 / 音楽:長岡亮介 / 出演:蒼井優、高橋一生、東出昌大、坂東龍汰、恒松祐里、みのすけ、玄理、笹野高史 / 制作プロダクション:C&Iエンタテインメント / 配給:Bitters End
2020年日本作品 / 上映時間:1時間55分
2020年10月16日日本公開
公式サイト : https://wos.bitters.co.jp/
新宿ピカデリーにて初見(2020/11/19)
[粗筋]
戦争の気配が濃厚に立ちこめてきた1940年。
情勢の不穏さを感じながらも、福原聡子(蒼井優)の生活は平穏を保っていた。夫であり、福原物産の経営者である優作(高橋一生)が余興で始めた映画撮影に付き合ったり、お手伝いの駒子(恒松祐里)を伴って山登りをしたり、と優雅な日々を過ごしていた。
しかし、優作が甥の竹下文雄(坂東龍汰)と共に満州を視察に赴いてから、その空気は変わっていった。最初は、陽気だった文雄が急に寡黙になったことを意識した程度だったが、決定的となったのは、旧知の憲兵分隊長・津森泰治(東出昌大)に呼び出されたときである。
文雄は優作の会社を退職し、旅館《たちばな》に籠もり執筆活動に勤しむ、と宣言していたが、その《たちばな》で仲居として雇われたばかりの草壁弘子(玄理)が殺害された。文雄に嫌疑はかかっていない、というが、問題は弘子の経歴だった。彼女は満州で看護婦として従事するうちに軍医の愛人となっていたが、その軍医が諜報行為によって捕縛されている。そして、そんな彼女が日本に帰還する手助けをしたのが、優作だ、というのだ。
聡子は、夫に突如として現れた女の影に驚き、優作を詰問するが、「君に嘘はつけない」と言い、いっさい口を噤んでしまう。優作には「信じる」と答えながらも納得のいかない聡子は《たちばな》に乗り込み、文雄を追求した。
文雄は憲兵によって監視されており、ここから一歩も動くことが出来ない、と言う。なおも真実を知ろうとする聡子に、文雄は自分が英訳したという書類を、原本と共に聡子に託し、中身を見ずに優作に手渡すよう言付ける。
[感想]
まるで劇中の時代設定である1940年代、或いはその影響を留める終戦間もない頃の日本映画を思わせる佇まいが、まず印象的な作品だ。丁寧に再現された小道具もさることながら、言葉遣い、イントネーションも現代的なリアリティに寄せるのではなく、往時の俳優たちを敷衍したようなトーンを守っている。その雰囲気作りにまず唸らされる。
しかし、それ故になのか、序盤はいささかテンポがゆったりしていて、間延びした印象が禁じ得ない。特に物語の中心にいる福原聡子が、如何にも苦労を知らないお嬢様然とした鷹揚な振る舞いをするので、余計にそのゆったりとしたテンポが強調されてしまっているように思う。
だが、夫……優作に疑惑が生まれるあたりから、じりじりとテンポが早まり、緊張感も増していく。中盤は「夫は何を隠しているのか?」という謎に焦点を絞って駆け引きが展開するが、夫の秘密が判明すると、謎や仕掛けが錯綜して、予測困難な展開に突入していく。
それにしてもこの作品、伏線が実に大胆極まりない。終盤にちょっとした衝撃が待ち受けているのだが、この映画ならではの趣向と見せ方は絶品だ。その気になればもっと複雑に描くことも出来るし、混乱もしかねない物語を巧妙に整理し、誰にでも解るかたちでクライマックスの衝撃を作り出す手際は実にしたたかだ。
そして本篇のそんな面白さに、誰よりも貢献しているのが、タイトルロールと言える福原聡子を演じた蒼井優であることは、恐らく鑑賞したひとはみな同意してくれるはずだ。
まるで昭和初期の名女優の佇まいを踏襲したような挙措、それでいて事態の変化によって揺さぶられる感情を見事に表現しきる巧さ。とりわけ、感情の振り幅が激しいクライマックスでの演技は、その衝撃をより強く印象づける。ラスト、彼女の魂の叫びは、そこから続くエピローグのあいだはもちろん、映画館をあとにしてからもしばらく忘れがたい。
明確な主義を持ち、有事にあってもスマートに振る舞う優作を演じた高橋一生、過去の関係性による複雑な心情を覗かせながらも冷徹に福原夫妻を追求する泰治に扮した東出昌大も、そんな蒼井の好演を絶妙にフォローしている。彼らとたびたび蒼井が繰り広げる“対決”があればこそ、舞台の多くない本篇にサスペンスとしての醍醐味をもたらしている。
エピローグ部分も実に憎い。戦争終盤における日本の荒廃ぶりと、それに対する聡子の感情描写もむろん見応えがあるが、素晴らしいのは結末である。ここでスタッフは彼らのその後を、たった3行のテロップで表現してしまう。そのなかに秘められた聡子の真意や本心は、観客が想像する他ない。受け取りようによってまるで異なる様相を帯びる幕切れは、本篇の余韻を更に重厚なものにしている。
極めて丁寧に組み立てられながらも目論見は大胆、歴史をきちんと踏まえながらも小難しい社会性を掘り下げることはせず、純粋にエンタテインメントとして享受できる。サスペンス映画の理想型とさえ言い切りたくなる傑作である。
関連作品:
『降霊 KOUREI』/『
『妻よ薔薇のように 家族はつらいよIII』/『引っ越し大名!』/『コンフィデンスマンJP プリンセス編』/『犬鳴村』/『海辺の映画館-キネマの玉手箱』
『陸軍中野学校』/『デュプリシティ ~スパイは、スパイに嘘をつく~』/『ジョーンの秘密』
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