盲目の理髪師

盲目の理髪師 『盲目の理髪師』

ディクスン・カー/井上一夫[訳]

John Dickson Carr“The Blind Barber”/translated by Kazuo Inoue

判型:文庫判

レーベル:創元推理文庫

版元:東京創元社

発行:1962年3月9日(1997年12月5日付32版)

isbn:4488118054

本体価格:600円

商品ページ:[bk1amazon]

 アメリカから出航したクイーン・ヴィクトリア号があと数日でイギリスに到達しようとしていたある日、勃然とトラブルが出来した。外交官カーティス・ウォーレンが撮影してうっかり処分し忘れていた、伯父である政府の大立者が酒宴の場で醜態を晒した一部始終を収めたフィルムが何者かによって盗まれたのである。船中にてウォーレンと親しくなった推理作家のヘンリー・モーガンと元船長のトマッセン・ヴァルヴィック、そして伯父である操り人形師に随行していたペギー・グレンの三人は、ウォーレンが犯人捜しのために考案した“罠”に手を貸すが、しかしその過程で、あろうことかクイーン・ヴィクトリア号の船長ホィッスラーを殴り倒し、彼が乗客であるスタートン卿から預かっていた、エメラルドの象をかたどったネックレスを紛失させてしまった。更には、事態の最中に忽然とウォーレンたちの前に姿を現した重傷の女性が、一連のゴタゴタのあいだにふたたび忽然と姿を消す、という出来事が発生する。女性を寝かしつけてあったベッドは整えられていたが、マットレスには血痕が染みつき、そのうえには“盲目の理髪師”をあしらった剃刀が、血にまみれて転がっていた。果たして殺人は起きたのか? それ以前に、この船のなかでいったい何が起きたのか? 一歩早く降船したモーガンの口から一部始終を聞かされたギディオン・フェル博士の推理が快刀乱麻を断つ。

 初期のアンリ・バンコランものは別として、基本的に探偵役からして落ち着きのない人ばかりというのがカー作品のお約束みたいなものであるが、本編ほど騒々しい話はさすがに他に覚えがない。誰ひとりじっとしておらず、てんでばらばらに行動しては事態を更に紛糾させる。そもそも自分が何をしようとしていたのか、途中で失念している登場人物がいるくらいだから、読んでいるこちらも終始混乱しっぱなしになる。よほど気が短かったり、出来事や登場人物をある程度頭の中で整理することに慣れていないと、途中で投げ出してしまいかねないくらいに渾沌としている。

 ディクスン・カーと言えば一種のドタバタ喜劇に近い性質を帯びる、という知識を持っている人も多いだろうが、実際にはあまりに状況がちぐはぐすぎたり、英語のニュアンスを日本語として噛みくだいた過程でエッセンスが失われたために、実際にはただただ話がややこしくなっているだけで、さして面白いとは感じず、結局全体の結構の巧みさに感心させられて印象が薄くなる場合がほとんどなのだが、本編の場合は完全にドタバタ騒ぎが事件を呑みこんでいて、その本領がいちばん伝わりやすい。笑ったり興がったり出来るか、と聞かれると、それは本人の資質や読み方によって異なるので一概に断言は出来ないのだけれど、他の作品よりも妙に楽しく、その面白みが隅々まで行き渡っていることだけは確実に理解できると思う。それについて行けるかどうかも、また読み手の資質次第だろうけれど。

 過程に好感を抱くか否かは別として、しかし解決編には誰しも感嘆の声を漏らさずにいられまい。一連のドタバタ騒ぎのなかに巧みに隠されたヒントを、実際に提示されたページ数を併記しながら抽出し、その意味をひとつひとつフェル博士が解きほぐしていくさまが実に見事だ。クイーンほど間然する隙のないロジックではないが、充分な説得力を齎すだけの材料を鏤めて、あれだけすっきりと纏めあげる手管はさすがの職人芸である。

 ドタバタ喜劇としての性格を強調する一方で、カーという名前により強烈に染みついている要素である、“密室”を代表する不可能犯罪の影はほとんど見られない。だがそれ故に、カーは密室などに頼らなくてもカーであり、傑出した個性を備えた探偵作家であることを証明する傑作であると思う。

 本編において、三人称ながら実質的な語り手として、フェル博士に対するかたちで読者に事件の経緯を説明する役割を担うヘンリー・モーガンは、『剣の八』事件でフェル博士と出逢い、本編で彼を頼るに至ったらしいのだが……そういえば、『剣の八』って、ハヤカワ文庫で新訳の発売が予定されていたはずなのだけど、あれはいったいいつ出るのでしょう?

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