『疑惑の影』
ジョン・ディクスン・カー/斎藤数衛[訳] John Dickson Carr“Below Suspicion”/translated by Kazue Saito 判型:文庫判 レーベル:ハヤカワ文庫HM 発行:1982年3月31日(2004年3月15日付2刷) isbn:4150703604 本体価格:800円 |
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一部では偉大と讃えられ、一部では忌々しがられている勅撰法廷弁護士パトリック・バトラー。弁舌を駆使して黒を白に変えることも厭わない彼は、二件の毒殺事件に悩まされる。一件は、有力な容疑者と見られた女性秘書ジョイス・エリスを、バトラー自身が奇跡的な弁護で無罪にしたばかりだが、続いて発生したリチャード・レンショーの毒殺事件では、最も疑わしいその妻ルシアと想いを寄せ合い、苦しい立場に身を置いてしまう。しかもあろうことか、ギデオン・フェル博士はこの二件が、近郊で立て続けに発生している毒殺事件と同根だと言い放つ……博士が見抜いた真相とは如何に、そしてバトラーはどうなる?
内容とは別途に、私がまず面白いと思ったのは、発表年代である。作中においてもちらほらと戦争の傷跡が認められる本書のオリジナルの発表年は1949年であるが、同年にエラリイ・クイーンが発表しているのが『九尾の猫』である。両者はテーマの一部が被っているのだが、どちらかが意識した、ということはあるのだろうか。詳しい方に訊ねてみたいところだ。 但し、クイーンの代表作に挙げられることも多い『九尾の猫』に対して、本書は決してクオリティは高くない。背景のアイディアは着眼であるし、その扱い方には如何にもカーらしさが横溢しているが、如何せん謎としてのインパクトが弱く、話運びも全般にもたついている。 理由はバトラー弁護士という、カー作品としてはやや異色の視点人物のせいだろう。理性的で利己的、美男子ゆえ依頼人が寄せる好意さえ利用しながら、最終的には冷静に切り捨てる――その際にも先方の反応を窺いながら、体裁は整えようとするあたりに冷たさの滲む人物像だ。そんな彼が、ジョイス・エリスから寄せられる執拗な好意にうんざりしながら、他方では未亡人となったルシア・レンショーに言いようのない魅力を感じ、両者のあいだで板挟みになりながら、どうやら連続しているらしい毒殺事件と相対する困惑を軸に物語は展開していくのだが、場面場面での行動の目的や意義がいまいち伝わりづらく、乗りづらいのだ。彼のあまりに打算的な言動のために、他の作品であれば無軌道ぶりを誤魔化してくれる笑劇めいた味付けもされず、尚更に足取りの悪さを感じてしまう。 しかし、中盤以降はちょっと趣が変わってくる。バトラーの自尊心を重んじる姿勢が途中から一種の騎士道精神に変容し、話運びに冒険ものの風味が混ざってくる。三度にわたる対決の場面には、男の子としてちょっと興奮させられたことは認めねばなるまい。 そうしてバトラーが活劇を演じる一方で、脇役に甘んじながらもちゃんとフェル博士が働いており、解決は鮮やかだ。序盤から鏤められていた伏線をきちんと回収し、意外な犯人をきっちりと指摘していく――最終的に犯人と直接対決する美味しい役は、視点人物たるバトラー弁護士が持って行ってしまうわけだが、解決の仕方や結末への態度はフェル博士らしく、最後にちゃんと見せ場も作っているあたりは実に呼吸を弁えている。 いちおうは密室トリックに該当するものが存在するのだが、敢えて誇示していないために謎の所在が解りにくく、事件の規模に対して解決がやや卑小である、という厭味もあり、全体にまとまりは悪いが、しかし話の組み立てや背景の構造などにカーの手癖がはっきりと滲み出た、カーらしい作品であると思う。 |
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