『時計館の殺人 日本推理作家協会賞受賞作全集68』
判型:文庫判 レーベル:双葉文庫 版元:双葉社 発行:2006年6月20日 isbn:4575658677 本体価格:857円 |
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いわゆる“新本格”の第一走者として『十角館の殺人』にてデビューした著者が、同書を皮切りとする『館』シリーズ第5作にあたる本書において第45回日本推理作家協会賞を獲得、推理小説界における地位を決定づけた記念碑的作品。本書は従来の講談社文庫版ではなく、推理作家協会賞受賞作全集の1冊として刊行されたものである。
十角館での事件から3年を経て、綺譚社という出版社に入った河南孝明は、所属する『CHAOS』編集部の企画で、鎌倉の町外れにある通称・時計屋敷にて催される降霊会に参加することになった。だが、河南らが儀式のために閉じこもった時計屋敷旧館のなかで主役であるはずの霊能力者が行方をくらますと、参加者が相次いで惨殺されていく。一方、時計屋敷が中村青司なる建築家の設計によるものだと知った河南の年長の友人であり作家でもある鹿野門実は新館を訪問、見学しようとするが、代わりに頼み事をされることとなる。時計屋敷にまつわる死の影の正体は何なのか、そして旧館に閉じこめられた人々を襲う殺人鬼はいったい誰なのか……? 最初に読んだのは講談社ノベルス版だった。まだ賞を獲得するより前だったのだろう、分厚さに惹かれて書店の棚から引き抜き、帯にある“神か悪魔か綾辻行人か”という惹句に度胆を抜かれたものだ。記憶が誤りでなければ、このフレーズはさきごろ亡くなった編集者・宇山日出臣氏によるものだったはず。随分大きく出たものだ、と初見では感じるが、しかし一読して本気で転げ回り、まさにその通りだと痛感したことも記憶している。赤川次郎氏、内田康夫氏と経由してようやく島田荘司氏に辿り着き、『「ら抜き言葉」殺人事件』『幽体離脱殺人事件』など、吉敷シリーズの最も軽い手触りだった時期の作品から親しんでいた私にとって、初めて衝撃を与えられた“本格ミステリ”がこの作品だったのだ。 以来何度か再読しているものの、さすがにここ数年は手つかずで、今回の推協賞全集収録を契機に久々に触れた。その後ミステリに限定せず随分とたくさんの小説、フィクションに触れてきたので、却って粗が目につくのでは、という危惧も若干抱いていたのだが、まったく逆であった。寧ろ未だにその仕掛けを鮮明に記憶しており、伏線の何たるかを理解しはじめたいまの目で読むと、その大胆なまでの周到な細工ぶりに驚かされる。 一連のムーヴメントの出発点となった島田荘司『占星術殺人事件』と同様に、ある大きな発想が作品全体を支えているのだが、『占星術』にあった細かな無駄、やけに緩んだような箇所が、これだけ長大な作品であるにも拘わらず本編には微塵もない。壮大な着想のために多くの要素が丹念に配置され、終盤に至って意味が解き明かされていく。そのさまは正しく牙城が崩れ去る姿を想起させ、強烈なカタルシス――或いはカタストロフィと表現してもいい――を齎す。 しかも本編は通常の本格ミステリにありがちな、状況提示の積み重ねであるが故に訪れる中盤の中弛みがない。新館において鹿野らがいっそ長閑とも言える風情で時計屋敷を探訪し、過去の悲劇や屋敷の背景について調べている傍ら、封鎖された旧館のなかで繰り返される殺人の緊迫感はどうだ。やもするとアンフェアに繋がる要因ともなる多視点での描写も、本編の場合は謎の仄めかし、サスペンスの強化に効率的に用いられている。真相を知っていれば膝を打つ、しかし答の見えないうちはあまりに謎めいて、ページを繰る手を急がせる描写の手管はまさに神憑りでさえある。 敢えて苦言を呈すれば、これほど絢爛たるクライマックスにも拘わらず、いま読み直すと著者のあまりにデジタルな思考法が災いして、ほんの少々華に乏しいことだが、もはやここまで完成されていては言いがかりにしか自分でも思えない――ただ、久々に読んでそう感じたことは付け加えておく。あまりにも初読時の衝撃が強烈すぎて、些か美化されていたことも考慮に容れつつも、その事実は覆せない。 とは言い条、数年振りに読み返してみて感じたのは、やはりこれは『十角館の殺人』に始まった“新本格”の波を総決算するに等しい傑作であった、ということだ。『占星術殺人事件』のような尋常ならざる強度を秘めた発想を、絢爛たる虚構で彩り、そして緻密な伏線によって解決編のカタルシスへと結びつける。当時までに陸続と現れた“新本格”の書き手たちがいつか辿り着くはずだった境地を、見事に体現した作品だった。 その後いわゆる“新本格”は京極夏彦氏、森博嗣氏らの登場を経て拡大・拡散を繰り返し、結果実態を失ってしまった感がある。この頃までに登場した書き手が寡作ながら上梓することで辛うじてその息吹は伝わっているものの、本当の意味で正統的な継承者は現れていないように思う。考えようによっては、本書が頂点に辿り着いたのと同時に、いちどとどめを刺してしまった、と言えるかも知れない。 他ならぬ著者自身もまたこの後執筆ペースが更に下降し、15年を経た現時点で書き継がれたシリーズ続編は『黒猫館の殺人』『暗黒館の殺人』『びっくり館の殺人』とわずか3作に過ぎず、率直に言って本編を超えることも出来ていない。久々に読み返し、その衝撃を確かめながらも、現状と重ね合わせてほんの少し寂しさを感じたのも否定できない。 だが、そうした感慨と作品の評価は別だろう。大事なのは、本書の壮大稀有な存在感は、15年を経たいまでもなお色褪せていない、という事実だ。本格ミステリとかいう枠組みを抜きにしても、無数の伏線によって構築された人工美の極地たる完成度に、感銘を受ける読み手は多くいるはずだ。もし、ミステリというジャンルに惹かれながらまだ未体験の方があるなら是非とも読んで欲しい。ミステリにさして惹かれなくとも、この文章から関心を抱いたような方にも、いつかは手に取っていただきたい。そう訴えて誇れる、そういう作品なのだ――少なくとも私にとっては。 ……すまん、ちょっと熱くなりすぎました。 なお、この口車に乗せられて読んだ結果、初めて綾辻作品に開眼したという方は、そのまま続く『黒猫館の殺人』に行ったりせず、『十角館の殺人』から順を追って読んでいただきたい。基本的に各編は切り離されているが、そのほうがより楽しめるはず。実のところ、綾辻作品でいきなり本書に触れてしまうのは、ある意味で不幸なことと言えるかも知れなかったりするので。 ぜんぶを読むのは(こと、あとに控える大長篇『暗黒館の殺人』に恐れをなして)億劫に思う、でも他にも読んでみたいという方には、ほぼ連続して発表された『霧越邸殺人事件』をお薦めしておきたい。本書と通底する館ものであり、本格ミステリとして端整な仕上がりを実現しながら、しかしそのベクトルは異なっている、という特殊な位置づけにある作品である。本書が“新本格”の頂点であるなら、『霧越邸』は綾辻行人という作家の向かうべき境地に立ち現れたマイルストーンと捉えることが出来よう。それ故に、綾辻行人という書き手に嵌るか否かを占うには、本書よりも『霧越邸』のほうが相応しい、と考える。 |
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『時計館の殺人』
講談社文庫 |
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