英題:“Looking for Anne” / 監督:宮平貴子 / 企画・原案・製作:ユリ・ヨシムラ・ガニオン / プロデューサー:サミュエル・ガニオン / 製作総指揮・編集:クロード・ガニオン、ポール・カデュ / 脚本:KIKYO GONPIN / 脚本協力:クロード・ガニオン、藤本紀子 / 撮影:福本淳 / 照明:市川徳充 / 美術:マルタン・ジャンドロン / 録音:渡辺真司 / 衣装:スサナ・フィッシャー / 音楽:ロベール・マルセル・ルパージュ / 主題歌:jimama『ETERNITY〜永遠の言葉〜』(Epic Sony) / 出演:穂のか、ロザンナ、ダニエル・ピロン、紺野まひる、高部あい、ジョニー・サー、吉行和子 / 配給:cinaquanon×Grand Jete
2009年日本・カナダ合作 / 上映時間:1時間45分 / 日本語字幕:松岡葉子
2009年10月31日日本公開
公式サイト : http://www.grandjete.jp/lookingforanne/
TCC試写室にて初見(2009/09/03) ※ブロガー試写会
[粗筋]
2008年の夏、杏里(穂のか)はカナダ東部にあるプリンスエドワード島の地に立った。当初の予定では、彼女の傍らには愛する祖母・静香(吉行和子)の姿があるはずだった。けれど空港に立つのは、杏里たったひとり。彼女を迎えに来たマリ(ロザンナ)共々、その表情は曇っていた。
静香は渡航数週間前に急逝していた。静香とふたり暮らしであった杏里は悲しみに打ちひしがれていたが、遺品を整理していたときに見つけたものが、彼女をカナダへと向かわせる。それは終戦間もない頃、静香が当時想いを寄せていたカナダ人兵士へと宛てたラヴレターであった。
“私のギルバートへ。あなたのアンより”
そんなふうに宛名の記された封筒に収められていたのは、いまの杏里と同じ17歳の頃の静香の切ない恋心。祖母が『赤毛のアン』を愛し、プリンスエドワード島を訪れる日を楽しみにしていたのは、このために違いない――そう確信した杏里は、手紙を祖母の想い人であるカナダ人兵士に渡すことを決める。
手懸かりは僅かだった。カナダ人兵士、1946年に東京に滞在し、プリンスエドワード島の灯台の近くに家がある、ということだけ。杏里は自転車を借りて、島のあちこちにある灯台を訪ね、祖母の記憶に深く根を下ろした“ギルバート”の姿を捜し求める。ある、複雑な想いを抱きながら……
[感想]
この作品は最初から最後まで、通底音として『赤毛のアン』が響き続けている。
終戦直後、若き日の静香が恋した相手に出した手紙の内容に、そんな静香が杏里に『赤毛のアン』を託していること。その舞台となっているプリンスエドワード島で営まれているマリの宿では、赤毛で三つ編みにしたカツラで記念撮影をしているシーンがあるし、逆に杏里が触れ合う客のひとり、フリーライターの美雪(紺野まひる)はアンの人物像を嫌悪し、プリンスエドワード島を紹介する書籍の企画を作るにあたって『赤毛のアン』の要素を排除しようと考えている。いずれも、どれほどこの島=アンのイメージが強いかを示しているが、基本的に杏里は観光旅行をしているわけではないので、意識して観客に向けてそういうイメージを強調している部分だ。何より、静香がカナダ人兵士に恋をしたのも、杏里がプリンスエドワード島を訪れたのも、『赤毛のアン』の物語が始まったときのアンと同じ17歳に設定されている。
しかし、物語は決して『赤毛のアン』をなぞっていない。ヒロインの杏里はあんなポジティヴ精神に満ちあふれておらず、最初は愛する家族を失った直後ゆえ萎れた表情をしている。杏里はこの島で新しい家族や生活を得るわけでもなく、時が来れば立ち去らなければならない。この作品はあくまで『赤毛のアン』と、あの物語を築きあげる土台となったプリンスエドワード島の風土の持つ清澄な空気を敷衍して、その先に新たな物語を描いたものだ。そのため、敢えて『赤毛のアン』を読んでおく必要はない。
本篇の見所は、実は非常に珍しいという、全篇プリンスエドワード島ロケにて撮影した美しい映像もさることながら、映像に劣らず繊細で美しいエピソードの数々である。愛する祖母を失ったばかりのヒロイン・杏里が島の人々との触れ合いを通して失意から立ち直っていく姿を中心に、宿の主人マリと隣人ジェフ(ダニエル・ピロン)の微妙な距離感から終盤にマリの過去が明かされるくだり、一緒に旅をしながらしばしば諍いを起こす姉妹の姿などが、杏里の物語と共鳴しながら綴られていく。親しい者や他人への思いやりや優しさが呼応し合って膨らんでいく様は、決して大仰な感動を呼びはしないが、爽やかな温もりを齎してくれる。
その一方で、視点を現代に据えたまま、第二次世界大戦、更にはカナダ建国の歴史にも軽く触れる手捌きが絶妙だ。祖母の初恋の相手を探す旅の過程で杏里はカナダの兵士たちが日本で経験した出来事を知って愕然とし、そしてある成り行きからイギリス以前にカナダに入植したフランス人=アカディアの物語にも接することとなる。通り一遍に観光名所を紹介するのではなく、プリンスエドワード島の人々の精神基盤にそっと分け入るような描写を含めることで、単なる観光案内的な作品ではなく、心の触れ合いを感じさせるレベルにまで掘り下げている。決して解ったような気分にさせるのではなく、何となく感じられる、という段階に留める匙加減がいい。
本篇は配役もまた絶妙だ。ヒロインを演じる穂のかはこれが初主演で、決して達者ではないのだが、そのぎこちなさと、だからこその丁寧さ、細やかな配慮の窺える表情や言葉の使い方が、杏里というキャラクターには嵌っている。キュートで愛さずにいられない“おばあちゃん”を、全篇ほぼ携帯動画の中でのみの登場という極めて制約された機会で存分に表現してみせた吉行和子、性格の違いも顔立ちの近しさも完璧に血縁を感じさせる紺野まひると高部あい、久々の映画出演であるという大物ダニエル・ピロンも素晴らしいが、何よりロザンナの起用は神憑りですらある。プロデューサーであるクロード・ガニオンが1970年代、日本に滞在していた頃の記憶から彼女を推薦したとのことだが、ロザンナがまさに17歳で来日していたこと、名前がそもそも本篇で重要な意味を持つ二つの要素を融合したものであること、更に日本人なら知っている彼女のその後の人生までも、本篇の主題、マリという人物像と見事にシンクロしている。仮にそういう知識がなかったとしても、ごくごく自然体な彼女の演技に文句をつけられる人はそういないだろう。
すべてがきっちり噛み合った作品に相応しく、ハッピーエンドで飾っているのもいい。締め括りの展開はおよそ予想通りではあるのだが、こういう作品は予想を裏切らないからこそカタルシスを得られるし、優しい気持ちに浸ることが出来る。観ていて心が洗われる、なんて表現は少し飾りすぎていて好まないのだが、他に言いようがないのだから仕方ない。
あまりに善意に色濃く彩られた作品ゆえ、そうしたものに対して意識して斜に構えてしまうような人には間違いなく向かないが、少し爽やかな感動が味わいたい、と思うなら観て損はない。
試写会の際に主催者の方が口にしていた通り、作品世界にいったん惹かれると、観終わったあとで『赤毛のアン』が読みたくなる。読んだことがなければ、彼女たちが愛した作品世界に触れるために。いちどでも読んだことがあれば、本篇のイメージを重ねて再確認するために。そう思わせてしまうという一事だけで、原作の価値を損ねるどころか、充分に高めることに成功した、誠実な一篇と言えるだろう。
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