『エンター・ザ・ボイド』

『エンター・ザ・ボイド』

原題:“Enter the Void” / 監督・脚本・カメラ:ギャスパー・ノエ / 製作:ブラヒム・シウア、ヴァンサン・マラヴァル、オリヴィエ・デルボスク、マルク・ミソニエ、ピエール・ブファン / 製作総指揮:スザンヌジラール / 撮影監督:ブノワ・デビエ / 美術監修:マルク・キャロ / 美術:太田喜久男、ジャン・ガリエール / VFX:ピエール・ブファン / 編集:マルク・ブクロ、ジェローム・ペネル、ギャスパー・ノエ / 音楽&音響効果:トマ・バンガルテル / 出演:ナサニエル・ブラウン、パス・デ・ラ・ウエルタ、シリル・ロイ、エミリー・アリン・リンド、ジェシー・クーン、オリー・アレクサンダー、エド・スピアー、丹野雅仁、サラ・ストックブリッジ、福原咲子、今井敏幸 / 配給:コムストック・グループ

2009年フランス作品 / 上映時間:2時間23分 / 日本語字幕:田中和香子 / R-18+

2010年5月15日日本公開

公式サイト : http://www.enter-the-void.jp/

シネマート六本木にて初見(2010/05/12) ※Twitterつぶやき試写会



[粗筋]

 新宿歌舞伎町の裏通りにあるアパートで、オスカー(ナサニエル・ブラウン)とリンダ(パス・デ・ラ・ウエルタ)の兄妹は念願の共同生活を始めた。幼い頃に事故で両親を失い、別
施設で育ったリンダと一緒に暮らすことは、オスカーにとって長年の夢だったのだ。

 定職を持たないオスカーが住居と収入を得るために選んだ手段は――薬物だった。買い取った薬物を別の人間に売り捌いて生じた利鞘でしのぐ。自身も薬物にどっぷりと浸っていたオスカーの生活は、危険な領域に足を踏み入れていた。

 その日、オスカーの携帯電話に、友人ビクター(オリー・アレクサンダー)からの連絡が入る。前夜、言い争いになったことを詫び、クスリを分けて欲しいと頼まれると、ちょうどアパートを訪ねてきたアレックス(シリル・ロイ)とともに、待ち合わせに指定されたバー“ボイド”に赴く。

 店に入りたくない、というアレックスを待たせてビクターと落ち合った途端に、事件は起きた。突如警察が店内に踏み込んできたのだ。慌ててトイレに逃げこんだオスカーは、投降を呼びかける警察に「銃を持っている」と嘘をついてしまう。そして、気づいたときには――彼の胸に、風穴が開いていた。

 まるでドラッグを服用したときのような酩酊感のなか、気づけばオスカーは、和式便器の横に倒れる自分の姿を見下ろしていた。そのまま、彼の意識は宙を舞い、壁をすり抜け、またたく間に遠い距離を行き来し、東京の夜空を彷徨し始める……

[感想]

 監督のギャスパー・ノエは、本篇を含めてもまだ3本しか長篇映画を撮っていない。にも拘わらず、“鬼才”という肩書きが馴染んでいるのは、それぞれのあまりに意欲的、刺激的な作り故であろう。

 前作『アレックス』はまだ『メメント』が話題を席捲して間もない頃に、同じように「時間を遡行していく」という手法を使いながら、エンタテインメントとは真逆の衝撃をもたらした異色作だった。表現として先進的でありながら、ある程度まで目的を明確に果たしていると見える一方で、本質的には“救済”を目指していると思われる組み立てが、却って悲劇の不条理さを際立たせ、人によっては唾棄したくなるような後味を残してしまうことが問題として残り、あまり他人に勧めづらい作品になっていた。

 7年ぶり、という長いブランクを経て発表された本篇もまた極めて意欲的な作りとなっている。『クローバーフィールド/HAKAISHA』や『REC/レック』のような、登場人物が構えているカメラの映像ではない、まさに主人公の視覚が認識するそのままの映像も、死者の視点からの映像というのも、いずれも決して珍しいアイディアとは言い難い。

 ただ、両者を組み合わせ、それだけで全篇通してしまった、というのは相当に特殊なケースだろう。死んだ者の視点、しかも最後にはあんなことを観客が追体験する、という発想にまで及ぶと、変態的でさえある。終盤の描写を考えれば、R-18+という高いレーティングも頷ける。

 しかし、それなのに本篇の後味は、『アレックス』のように吐きたくなるようなえぐみはない。捉え方によっては悪趣味とも言えるが、成り行きを受け止めるのにさほど抵抗は覚えないはずだ。

 この印象の変化には、『アレックス』での反省を踏まえたような、ギャスパー・ノエ監督の真摯な姿勢が透け見える。ハッピーエンドにすればいい、程度の安易な考えではないが、あの結末の備えるどうしようもない後味の悪さを思うと、雲泥の差を感じるラストシーンだ。

 実のところ、本篇も『アレックス』と同様、その結末が狙ったのは“救いようのない現実からの救済”と考えられる。しかし、『アレックス』が物事を逆から捉えなおすことで無理矢理幸福感の恢復を試みていたのに対し、本篇のやり口は些かスピリチュアルに傾斜しすぎた感もあれど、破滅的な現実のその先に救いを生むことに成功している。監督は日本公開時のコメントで、本篇の構想が『アレックス』以前、長篇デビュー作よりも前からあった、と語り、『アレックス』が前哨戦であったかのようなコメントをしているが、なるほど、そう考えると自然かも知れない――まるで、救済が現実には存在しないかのような諦念も感じさせるが。

 ひとしきり主題について漠然と語ってきたが、いずれにせよ本篇は、『アレックス』の実験性をさらに拡張し、より観る者の“感性”、感じ方に委ねている部分が大きい。出来事自体は単純明快、手法も独特ながら非常に解りやすいものを選択しているにも拘わらず、ここまで強烈な刺激を観る側に与え、解釈しようと思わせてしまう映画も滅多にない。

 序盤の、ドラッグを服用したオスカーが目にする幻覚のヴィジュアルや、狭い空間であっても俯瞰での絵をきっちり押さえているカメラワークなど、映像技術的に素晴らしく、その非常に美しい。クライマックスで示される一連の映像が、大変に美しい一方で些か生々しすぎる、たとえ映像表現の幅に寛容でも、人によっては嫌悪感を示しかねないものが含まれているので、誰彼構わずお薦めする、という真似は出来ないが、もし挑発的な映画が観たい、というなら、本篇には間違いなく一見の価値がある。望んでも、こんな類いの映画が現れることはそうそうないだろうから。

関連作品:

アレックス

ロスト・イン・トランスレーション

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