原題:“12 Angry Men” / 監督:シドニー・ルメット / 脚本:レジナルド・ローズ / 製作:レジナルド・ローズ、ヘンリー・フォンダ / 撮影監督:ボリス・カウフマン / 美術監督:ロバート・マーケル / 編集:カール・ラーナー / 音楽:ケニヨン・ホプキンス / 出演:ヘンリー・フォンダ、リー・J・コッブ、エド・ベグリー、マーティン・バルサム、E・G・マーシャル、ジャック・クラグマン、ジョン・フィードラー、ジョージ・ヴォスコヴェック、ロバート・ウェッバー、エドワード・ビンズ、ジョセフ・スィーニー、ジャック・ウォーデン / 配給:松竹セレクト / 映像ソフト発売元:20世紀フォックス ホーム エンターテイメント ジャパン
1957年アメリカ作品 / 上映時間:1時間35分 / 日本語字幕:進藤光太
1959年8月1日日本公開
2010年8月4日映像ソフト日本最新盤発売 [DVD Video:amazon]
第1回午前十時の映画祭(2010/02/06〜2011/01/21開催)上映作品
第2回午前十時の映画祭(2011/02/05〜2012/01/20開催)《Series1 赤の50本》上映作品
TOHOシネマズ六本木ヒルズにて初見(2011/06/15)
[粗筋]
それは、とても簡単な裁判と思われた。スラム街で育った少年が、父親を刺殺した容疑で逮捕された。目撃者があり、証言も物証もある。育ちは悪く、殺人を犯しても不思議はない。弁護人もこれといった反対尋問をしないまま審理は進み、12人の陪審員たちは評決のため、裁判所に用意された陪審員室に通された。
すぐにも審議は済みそうだと、ほとんどは楽観的なムードだったが、いざ決を採ろうとしたとき、ひとりが異を唱えた。その男、8番(ヘンリー・フォンダ)は、具体的な理由はないが、このまま議論もせずに少年を電気椅子送りにすることに、抵抗を示した。決を出す前に、もう少し話し合うべきではないか?
どう見ても不良少年である被告に対して不信感を抱く者もあれば、審理のあとに野球を観ることを楽しみにしていた男もあり、同席した者たちのほとんどは、意固地になる8番に苛立ちを隠さなかった。しかし、陪審員長を委ねられた1番(マーティン・バルサム)は、まだ時間はある、と全員で8番を説得するために意見を出し合う、という提案をする。
こうして始まった議論のなかで、だが少しずつ明らかになっていったのは、陪審員の大半を説き伏せていた証言や証拠に秘められた、“合理的な疑い”の数々であった……
[感想]
法廷もの、と呼ばれるジャンルが存在する。その名の通り、法廷を舞台とし、裁判の中でのスリリングな駆け引き、繰り出される新事実の応酬などで魅せるもので、時代を問わず作られている。
本篇もまた法廷ものと呼ぶべきなのだろうが、しかし他のものと異なるのは、法廷は法廷でも、既に証言や陳述が終わり、結論を委ねられた陪審員たちが、決を採っている様子のみでほぼ成立していることだ。
しかも、証言の内容そのものを再現することはおろか、裁判の様子を再現する映像さえ差し挟まない。ひたすらに、陪審として参加した12人の男達の会話を追うだけだ。しかも参加しているのは中年から既に現役を退いたような年輩の人物で、およそ絵になりそうもない。現代なら――いや本篇の製作当時であっても、無理矢理に若く美しい女性を組み込んで絵的なバランスを取りそうなところだろう。
しかし本篇は、そういう映画として面白くなさそうな状況、登場人物を配しているのに、観始めると程なく惹きこまれてしまう。法廷での成り行きをナレーションなどで説明することなく、すべてを実際的な会話のみで間接的に描いているので、観客が積極的に耳を傾けるように仕向けていることも奏功しているのだが、やはり題材の扱い方が優れているのだろう。
陪審員室に入っていった時点では、ほとんどの陪審員が有罪を確信している。しかしただひとり、8番目の陪審員が、審議することなく被告の命を奪うような行為は避けるべきではないか、と言って敢えて無罪に票を投じる。最初は8番に明白な事実を伝えて翻意させようとするのだが、そのひとつひとつに“合理的な疑い”が投げかけられ、じわじわと場の空気が変わっていく。巧みな変化と緊張感の高まりが、決して動きの多くない映像にも拘わらず観客を飽きさせず、気づけば彼らと同じ場に座らされているような感覚を味わわせる。
巧妙なのは、主役は事件そのものだが、しかし陪審員たちの人物像も、議論の流れに深く関わっている点だろう。実質的な“探偵役”である8番は終始冷静に疑問を唱えるが、何人かは頑強に有罪にこだわり続ける。語り合ううちに、名前さえ出て来ないのに彼らの生活や思想の一端が滲み出し、それが個々の主張を大きく左右していることを窺わせる。被告となった少年と同様の劣悪な環境で育った者がいるかと思えば、そんな彼らに謂われのない反感を抱く者もいる。それが少しずつ浮き彫りになる様子に、単なる“謎解き”に留まらない奥行きが感じられる。とりわけ終盤、ほとんどの者が無罪に傾いたところで、ある人物のあまりに頑なな判断の根底が顕わになった場面の描き方は実に印象的だ。
それにしても見事なのは、さっきから幾度か“動きがない”と表現しているものの、実際に鑑賞しているときにはそういう感想が湧いてこないほどに、映像に工夫が施され、躍動感を滲ませている点だ。席に着いた一同を横に滑るカメラで順に撮したり、細かくカットを切って複数の表情を折り重ねてみたり、日が翳り雨が降るという自然現象を取り込んで光の加減を操ったり……見ている途中で、これが密室劇である、ということを失念するほどに映像の変化が多い。そしてそれが決して小手先のアイディアなどではなく、陪審員たちの揺れ動く感情と呼応しているのがまた絶妙なのだ。
そして、結末も実に鮮やかだ。途中でも語られるとおり、それぞれの思い込みや固定観念はなかなかに覆すことが出来ない。観ている方でさえこのまま膠着するのではないか、とハラハラするが、あることがきっかけで最後のひとりが折れる。その瞬間の、爽快でありながら、しかしその人物の心情が透け見えるが故の苦々しい余韻は出色だ。
人によっては、これほど明白に疑惑を示せる証拠ばかりのなかでどうして裁判が被告にとって不利に進んだのか、という疑問を抱くだろう。実際、そういう疑念を拭いきれないのが本篇の弱さであるが、しかしこれはむしろ変に凝った謎、あまりにも作られた検察側有利の流れよりもよほどリアルだ。その場で形成された強い決めつけ、思い込みは、誰かがよほど強く矯正を試みない限り、動かせないものである。
そうした裁判、というより議論というものそれ自体の難しさを描いた社会派の映画として捉えるのもいいが、だがそういう点を抜きにしても、本篇が掛け値無しに面白い作品であることに違いはない。絵的に華がなければ駄目、事件の内容は派手であるべきだ――そういう思い込みを抱いている人もきっと、最後に結論を翻した男のように、認識を改めること請け合いの、力強い傑作である。
ちなみにこの作品、2007年にロシアにてリメイク版『12人の怒れる男』が製作されている。オリジナルである本篇よりも先にそちらを鑑賞してしまったのだが、いまにして思うと、かなり優秀な仕上がりだった。
当初は陪審員の大半が有罪という心証を抱いている中で繰り広げられる議論、少しずつ提示される“合理的な疑い”という基本要素を取り込む一方で、ロシアの社会情勢を組み込み、結末にちょっとしたひねりが加えられている。なまじ本篇が完璧に近い出来だからこそ、ロシアでリメイクする意味を付与した、というのはそれだけオリジナルに敬意を払っていた証拠だろう。
劇場公開されていた当時、「あの作品をリメイクする必要があるのか」と感じて忌避していたような方、最近になって本篇を鑑賞して惹きつけられた、という方にも、いちどロシア版のほうも鑑賞していただければ、と思う。
関連作品:
『評決』
『12人の怒れる男』
『情婦』
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