『猿の惑星:創世記(ジェネシス)』

『猿の惑星:創世記』

原題:“Rise of the Planet of the Apes” / 原作:ピエール・ブール / 監督:ルパート・ワイアット / 脚本:リック・ジャッファ、アマンダ・シルヴァー / 製作:リック・ジャッファ、アマンダ・シルヴァー、ピーター・チャーニン、ディラン・クラーク / 製作総指揮:トーマス・M・ハメル / 撮影監督:アンドリュー・レスニー / シニア視覚効果監修:ジョー・レッテリ / プロダクション・デザイナー:クロード・パレ / 編集:コンラッド・バフ、マーク・ゴールドプラット / 衣装:レネ・エイプリル / 音楽:パトリック・ドイル / 出演:ジェームズ・フランコフリーダ・ピントジョン・リスゴーブライアン・コックストム・フェルトンアンディ・サーキス / チャーニン・エンタテインメント製作 / 配給:20世紀フォックス

2011年アメリカ作品 / 上映時間:1時間46分 / 日本語字幕:戸田奈津子

2011年10月7日日本公開

公式サイト : http://saruwaku.jp/

TOHOシネマズ日劇にて初見(2011/10/07)



[粗筋]

 サンフランシスコに拠点を置く製薬会社で、研究者として勤務するウィル(ジェームズ・フランコ)は、革命的な新薬を完成させつつあった――抗アルツハイマー薬である。薬品は捕獲されたチンパンジーに試験的に投与され、結果、1匹のチンパンジーが飛躍的に知能を発達させた。ニューロンを再構成する役割が、猿に思いがけない効果を齎したのである。

 だが、折しもウィルが上層部に対してこの新薬のプレゼンを行っているまっただ中で、悲劇は起きた。投薬で高い成績を出したチンパンジーが突如暴れ出し、会議室に侵入した挙句に射殺されたのである。

 この出来事が原因で、新薬の商品化はおろか研究の規模縮小の指示が出され、開発は停滞を余儀なくされる。整理中の研究室に失意のまま赴いたウィルは、実験体のチンパンジーが暴れた原因が、産まれていた子供を守るためだったことを知った。当座、引き取り手のないそのチンパンジーを、ウィルはやむなく引き取った。

 だが、このチンパンジーがウィルにとっての曙光となった。アルツハイマーを患うウィルの父チャールズ(ジョン・リスゴー)によってシーザー(アンディ・サーキス)と名付けられたチンパンジーは、母猿の知性を発達させた要素を遺伝として受け継ぎ、驚異的な知能を示したのである。1歳半で身振りによるコミュニケーションが可能となり、3歳にして手話を体得、人間の8歳児レベルのパズルを完成させるようになった。

 彼の存在こそが新薬開発にとって最大の鍵となることを感じたウィルは自宅勤務の形で研究を継続、念願の試薬を完成させるに至る。そして、会社の研究室で製造された試薬を持ち出し、父に実験的に投与すると、それは予想を上回る薬効を発揮した。かつてピアニストであったが、病状の進行により手が思うように動かなくなっていたチャールズが、華麗な指捌きでピアノを奏でたのである。

 シーザーが縁で、ウィルはキャロライン(フリーダ・ピント)という伴侶とも巡り逢った。すべてが順調に運ぶように思われた――だが5年後、事態は思わぬ展開を迎える……

[感想]

 オリジナル・シリーズの完結から38年、ティム・バートン監督によるリメイク版から数えても10年を経て製作された本篇は、宣伝や予告篇からすると、シリーズの原点である第1作から時代を遡って作られた前日譚であるかのように思われた。実際、私はそのつもりで劇場に足を運んだのである。

 だが、いざ観てみると、製作者は必ずしも1作目にストレートに繋げようとはしていない。そういう解釈で捉えることも可能だが、ティム・バートン監督によるリメイクとは異なる形で、再度あの世界を創造しようとした作品と捉えるべきだろう。

 しかし、そういう解釈の違いはあれども、本篇は旧シリーズに愛着がある人であっても、私のように後半の作品には批判的な立場を取っている者であっても、本篇の出来映えには文句がつけにくいはずだ。この作品は、オリジナル・シリーズが3作目以降で描くべきだった物語、キャラクターのディテールを、見事な形で再構築しているのである。

 旧シリーズでいちばん不満を覚えるのは、猿たちの造形だ。確かに当時としては最高水準の特撮技術を用いているのだろうが、どうしても“見た目の違う人間”ぐらいにしか感じられない。第1作や第3作については、人間がどうしても切り離しがたく持つ差別意識をひっくり返すところにも狙いがあったためにそれで良かったが、第4作第5作はまだ知性を充分に育んでいない猿たちの物語であり、もっと原始的な動きを再現するべきだった。その一方で、猿たちの変遷についても性急すぎ、唐突すぎる感があり、全体に不自然さがつきまとっている。

 それに比べ本篇は、猿たちの細かな仕草、表情が実にリアルだ。特殊メイクで人間がそのまま演じるのではなく、俳優が生身のまま演じたときの筋肉の動きなどを情報として採集し、それをCGで作られたキャラクターに反映する“モーション・キャプチャー”という手法を採用しており、そのお陰で毛並みや皮膚の質感はよりリアルになり、動作はより自然になった。既にピーター・ジャクソン監督の『キング・コング』でこの手法に臨んでおり、第一人者となっているアンディ・サーキスが猿の中の最重要キャラクターであるシーザーを演じていることも奏功しているのだろう、こうして生まれた“猿”の演技は圧倒的な説得力を備えている。

 そして、猿たちが変化していく過程も、旧作と比べて遥かに合理的だ。旧作では4作目と5作目のあいだにあるべき大きな変化がなおざりになっていて、消化不良の感があるのだが、本篇はこの抜けた繋がりをきっちりと埋めている。

 ストーリー的には、だから解りやすい衝撃や、驚くべきひねりといったものはなく、ストレートな印象を受ける。元祖である第1作の備えていた、痛烈に人間の文明を諷刺する描写などはなく、そういったものを望む人にはやはり不満を覚える内容だが、しかし前述したように、猿たちの変化を丁寧に辿っているうえ、それを補強する人間たちのドラマもシンプルながら重厚に描いているので、意外なほど胸に迫ってくる。

 巧みなのは、旧シリーズが持っていた戦争に対する隠喩をいちど捨て、猿たちの発展するもととなった出来事を“新薬の開発”という題材に絞ったことだ。それがそのまま猿たちの進化を促すのと同時に、きっかけを作ったもうひとりの主役である研究者ウィルの物語を形作り、猿たちの動きと相互に影響し合って、ドラマを充実させていく。決して派手さはないが堅実で、牽引力に富んだ語り口なのだ。

 監督は、日本では未公開だが、脱獄を題材にした長篇で注目され抜擢された人物だという。なるほど、と思わされるのは、シーザーが動物の管理局から脱出される過程の緻密さ、その描写の印象深さだ。猿たちの中にシーザー同様手話が可能なものを組み込み、少しだけ状況分析をさせているが、基本的にシーザー目線での描写には具体的な説明がない。にも拘わらず、シーザーの意志や状況の変化が解りやすい。

 脱走してからの描写に印象的なものが多いことにも好感を覚える。こと秀逸なのは、住宅街の街路樹のうえを無数の猿たちが通り過ぎていくくだりだ。猿たちの変化を解りやすく表現すると同時に、観客がどこに感情移入して鑑賞しているかによって、感動的なくだりにも、ホラー映画のひと幕のようにも捉えられるトーンに唸らされる。

 そうして緻密に精度の高い描写を積み重ねたからこそ、クライマックスのごくあっさりとしたやり取りでさえも、不思議と感動をもたらす。オリジナルが向かったゴールを思えば、人間にとってこの先には悲劇しかない、と解っていても、あの繊細な表現は胸を打つものがある。

 斯様に、オリジナルに比べて細部に拘った作りをしながら、オリジナルに対する敬意をまったく損なっていないのも美点だ。まるっきり同じ展開、描写こそ組み込んでいないが、オリジナル・シリーズの様々な要素をあちこちに盛り込んである。たとえばウィルの家で育てられているシーザーが手にしている玩具、管理局に囚われた直後に受ける虐待の様子、などが挙げられるが、旧シリーズを鑑賞していると最も感激するのは、蜂起のシーンだろう。詳述は避けるが、オリジナル・シリーズで唱えられている過去とは異なる展開に、予想外のタイミング、しかし納得のいく場面で繰り出されるあの一瞬は、あまりに鮮烈だ。

 基本はシンプル、しかしオリジナルに敬意を払いつつも、その表現を掘り下げ、優れたSFドラマに仕立てている。旧作を知っていても知らなくとも、きっと感銘を受けるはずだ。

関連作品:

猿の惑星

続・猿の惑星

新・猿の惑星

猿の惑星・征服

最後の猿の惑星

キング・コング

127時間

スラムドッグ$ミリオネア

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