原題:“Rebecca” / 原作:ダフネ・デュ・モーリア / 監督:アルフレッド・ヒッチコック / 脚本:ロバート・E・シャーウッド、ジョーン・ハリソン / 製作:デヴィッド・O・セルズニック / 撮影監督:ジョージ・バーンズ / 美術:ライル・ウィーラー / 編集:W・ドン・ヘイズ / 特殊効果:ジャック・コスグローヴ / 音楽:フランツ・ワックスマン / 出演:ローレンス・オリヴィエ、ジョーン・フォンテイン、ジョージ・サンダース、ジュディス・アンダーソン、グラディス・クーパー、レオ・G・キャロル、ナイジェル・ブルース / 配給:セルズニック東宝
1940年アメリカ作品 / 上映時間:2時間10分 / 日本語字幕:石田泰子
1951年4月24日日本公開
2011年2月16日映像ソフト日本最新盤発売 [DVD Video:amazon]
第2回午前十時の映画祭(2011/02/05〜2012/01/20開催)《Series2 青の50本》上映作品
TOHOシネマズ六本木ヒルズにて初見(2011/12/12)
[粗筋]
ヴァン・ホッパー夫人(フローレンス・ベイツ)の付き添いとして雇われ、モンテカルロまで同行した私(ジョーン・フォンテイン)は、そこでイギリスの貴族マキシム・ド・ウィンター(ローレンス・オリヴィエ)と出逢った。ヴァン・ホッパー夫人が風邪をこじらせて身動きが取れなくなっているあいだに、マキシムに繰り返し誘われ彼に惹かれていったが、夫人の令嬢が婚約を決めたために急遽帰国することが決まってしまう。最後にひと目お逢いしようと部屋を訪ねた私に、マキシムは驚くべき提案をした――今すぐに結婚しよう、と。
そうして私はド・ウィンター夫人となってイギリスに戻り、マキシムの暮らすマンダレー荘園に迎え入れられた。
そうでなくても、庶民に過ぎないのに貴婦人のふりをすることにプレッシャーを覚えていた私を脅かしたのは、屋敷の随所に残る前夫人レベッカの痕跡である。ひとりで海に出て、1ヶ月後に屍体となって打ち上げられた、というレベッカの部屋も、彼女の持ち物も、屋敷にはほとんどが残されている。使用人頭のダンヴァース夫人(ジュディス・アンダーソン)は前夫人を崇拝しており、彼女以外の使用人たちも、口には出さなかったが何かにつけ私をレベッカと比較しているのを感じた。
夫となったマキシムは、出逢った頃と同じように私に愛を注いでくれるが、それでもときおり奇妙な陰がその面を過ぎり、唐突に激昂することがある。何としてでも私は、レベッカ以上の妻にならねばならない、と感じた。そのために、努力を怠ってはならないと……
[感想]
かのアルフレッド・ヒッチコックがイギリスからハリウッドに移り、初めて監督した記念すべき作品である。サスペンスの名匠であるが故に、本篇もまた紛うかたなきサスペンス、なのだが、しかし手触りは一風変わっている。
いわゆるサスペンスのお約束である、屍体や生命の危機といったものはほとんど出てこない。レベッカ、という過去の死者がいるだけで、視点人物たる新婦の身に直接危害が及ぶことはない。ひたすらに異様な気配、屋敷全体に刻まれたレベッカの痕跡や、夫と使用人頭らの不可解な態度で、緊迫感を醸成する。
ここに、語りの細やかな工夫が活きている。本篇はプロローグにおいて、屋敷の様子をヒロインの声を借りて綴るが、このシークエンスだけで多くのことを仄めかし、巧みに観客の関心を惹く。そのすべての答が出揃うのは本当に最後の最後なのだから実に憎い。
一連の出来事の目撃者にして語り手であるヒロインの氏名をぼかしたまま話を進めるのも巧妙だ。一人称の人物に観客を感情移入させる策、という見方もあろうが、この作品の場合はそれと同時に作品の謎をいっそう膨らませる効果も上げている、と感じる。何がどう、と詳しくは述べないが、観終わったときに振り返ってみると、初見のときに彼女の立ち位置が絶妙に配慮されていることが解るはずだ。
しかし何よりも秀逸なのはこのタイトルだろう。本篇は終始、このレベッカという人物に振り回される格好だが、登場人物ではなく観客にそれを強く意識させるのは、描写の巧みさもさりながら、題名として設定していることが大きい。あらゆる場所に彼女の存在が染み込むかのようだ。
人が憧れるようなロマンスのあと、辿り着いた壮麗な館で繰り広げられる、薄気味悪い気配に彩られたドラマ。そのすべてに、まさに“R・W”と刺繍されているかのような、“レベッカ”の圧倒的な存在感。華やかでありながら、直接的に凄惨な現場を示すことなしに終始緊迫した空気を漂わせる、品性を備えたサスペンス映画である――もはや、こういう作品はそうそう現れることがないのではなかろうか。
関連作品:
『裏窓』
『風と共に去りぬ』
『第三の男』
『死者との結婚』
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