原題:“I’m Still Here” / 監督:ケイシー・アフレック / 脚本:ケイシー・アフレック、ホアキン・フェニックス / 製作:ケイシー・アフレック、ホアキン・フェニックス、アマンダ・ホワイト / 撮影監督:ケイシー・アフレック、マグダレーナ・ゴルカ / 編集:ケイシー・アフレック、ドディ・ドーン / 音楽:マーティ・フォッグ / 出演:ホアキン・フェニックス、アントニー・ラングドン、キャリー・パーロフ、ラリー・マクヘイル、ケイシー・アフレック、ジャック・ニコルソン、ブルース・ウィリス、ダニー・デヴィート、ベン・スティラー、ショーン・コムズ、ジェイミー・フォックス、ビリー・クリスタル、ダニー・グローヴァー / ゼイ・アー・ゴーイング・トゥ・キル・アス製作 / 配給:Transformer
2010年アメリカ作品 / 上映時間:1時間48分 / 日本語字幕:ブレインウッズ
2012年4月28日日本公開
公式サイト : http://yougisha-jp.com/
[粗筋]
ホアキン・フェニックス。夭逝したリヴァー・フェニックスの弟であり、『グラディエーター』『ウォーク・ザ・ライン/君につづく道』の2度にわたってアカデミー賞にノミネートされた経験のある名優である。
だが、2008年、彼は突然、マスコミに向かって、引退宣言をした。もう偽りの自分を演じるのは嫌だ、これからは自分の心に正直に表現したい。そう言って彼が目指したのは、ヒップホップの世界だった。
驚愕する世間、俳優仲間たちをよそに、ホアキンはかねてからの音楽仲間アントニー・ラングドンや以前からのアシスタント、ラリー・マクヘイルらのサポートを受け、ヒップホップ・アーティストとしての活動を始める。
そんな彼の姿をカメラで追うのは、友人であり、妹サマーの夫でもあるケイシー・アフレック。だが、ケイシーが記録したのは成功への軌跡ではなく、元セレブを待ち受ける苦難の道程であった……
[感想]
この作品、予備知識をどの程度持っているか、によって極端なほどに受け止め方が変わってくる。
ホアキン・フェニックスという俳優について有り体の知識しか持ち合わせていない、それどころか実在していることも知らない、というぐらいの人は、ひとりの俳優の凋落を描いたドキュメンタリーとして、素直に本篇を受け止められるのではなかろうか。恐らく、あまりにも惨い経緯に胸を痛め、ラストシーンの虚しさに共鳴さえ出来るかも知れない。
だが本篇は、アメリカ本国ではかなりの顰蹙を買ったという。日本の宣伝では“激怒”という表現を用いていたが、正直なところ、その気持ちも解らなくはない。
ホアキン・フェニックスは実際に、公然と引退を宣言し、ヒップホップ界に転身した。作中で描かれているとおりにライヴ活動や音楽プロデューサーへの呼びかけも行い、そのなかでみすぼらしい姿でテレビ番組に出演し、アカデミー賞のセレモニーを筆頭に揶揄され、本当に「ホアキン・フェニックスは終わりだ」と囁かれもした。
だが、実際にはホアキンに引退するつもりはなかった。作中でも描かれているとおり、ケイシー・アフレックにドキュメンタリーとして撮影させることを前提に、嘘の引退宣言をし、それに対する反応を克明に記録、実際にヒップホップ・アーティストとして活動する、という設定のもとに作りあげた、いわばドッキリ込みのドキュメンタリーなのである。
作中に盛り込まれた、世間の態度などはほとんど本物なのだ。そういう意識を持って本篇を鑑賞した場合、ふた通りの反応が考えられる。予想通りの凋落ぶりを嘲笑するか、その痛々しさを批判的に眺めたことに罪悪感を抱くか、だ。観終わったあとで、そうした成り行きが嘘だった、と知らされれば、そりゃ怒っても不思議はない。
ただ、冷静に眺めると、この“嘘”は果たして責められる性質だったのか、と首を傾げたくなる。何故なら、確かにホアキンと監督のケイシー・アフレックはこの仕掛けのために、周囲に対しても事実を偽って伝えていた節があるが、しかし引退宣言やライヴ、テレビのトーク番組への出演といった、公に露出する部分は実際に行い、そのために約2年間、本当に俳優としての活動を断っている。作中語られるほど困窮していたのか(ケイシー・アフレックは本篇の撮影中も俳優として活動していたので、製作に名を連ねていることからして自身も資金を投入していたと思われる)、という疑問はあるし、聴きようによっては微妙とも、それなりに才能の閃きを感じ取れる、とも言えるホアキンの演奏も、どこまでが本気だったのか、という点は判断しづらい。
少なくとも公の場に出たあとでの、世間の反応は現実なのだ――実際、作中で引用される、アカデミー賞セレモニーのなかでベン・スティラーがトークショーでのホアキンの振る舞いを真似たくだりは、私自身生放送で確認している。そして、たとえかなりの部分が虚構であったとしても、世間の冷淡な反応に対してショックを受け、神経を磨り減らしたことは事実だったのではないか、とも読み取れる。資産にどれほどの影響があったのかは想像するしかないが、製作中の2年間、ごく僅かなライヴ、引退宣言前に出演した作品のプレミアで出演した際などで収入はあっただろうが、支出のほうが遥かに多い状態で臨んでいたのだ。決して本人がなにも痛みを味わわずにいたわけではない。
本篇の厄介さは、果たしてどこまでが本気で、どこまでが演技だったのか、判断が非常に難しいところにある。
作中でも、「この家を維持出来るか解らない」というホアキンの述懐があるが、本当にそこまで著しい支出があったのか、それとも傍目に想像するほど資産がなかったのかは定かではない。また、ネットなどで確認出来る世間の反応にショックを受けている描写が随所で見受けられるが、果たしてどの程度ホアキンの心に響いていたのか。
更に言えば、彼のラッパーとしての実力が、どの程度までフィクションだったのか、という謎も残る。歌の経験こそなかったが、研究の末に歌手ジョニー・キャッシュになりきり、オスカーにノミネートされた『ウォーク・ザ・ライン/君につづく道』の例を思うと、クオリティを上げることがまるっきり不可能とは言い切れない。ゆえに作中、垣間見えるラップの出来映えもまた意図的に半端なものに仕上げているのでは、と疑うことが出来る一方で、もし少しでも本気であったとしたら、観客や大衆の反応、とりわけ音楽業界の関係者の態度は、かなり堪えただろう。
いったい、本篇の“出演者”のどこまでが、真実を把握していたのか。何度もホアキンを袖にしながら、ようやく面会し、彼の音楽に厳しい言葉を投げつけたショーン・コムズは? 引退宣言後のホアキンに脚本を持ち込み、カメラの前で突っぱねられた挙句に、トークショーでのホアキンの姿を公の場で真似たベン・スティラーは? 前々からの音楽仲間で、辛抱強くホアキンをサポートしながら、終盤で堪忍袋の緒を切り、とんでもない行動に及ぶアントニー・ラングドンは?
もしかしたら本国では隅々まで種明かしが行われているのかも知れない(そのうえで余計に顰蹙を買ったのかも知れない)が、日本で提供されている情報では判断しがたい。それ故に、なまじ“ホアキンはラッパーにはならなかった(本当になるつもりはなかった)”ということを知っていると、虚実が入り乱れたような感覚に襲われ、そこから離脱出来ない。
人間の表面的な行動を安易に批判し、その真意を考慮しない、大衆の浅はかな言動を批判しているようにも映る。そこまで踏み込む意図はなく、いわゆる“セレブ”と呼ばれる人種が、世間の認識と自分の願望とが乖離するあまりに消えていくさまを、メタ・フィクション的な手法で描こうとした、とも捉えられる。だが、どのように捉えても、その大胆で極端な方法ゆえに、評価がしづらいのだ。
実のところ、本篇の観客として、最も難しい立場に置かれるのは、日本での宣伝の仕方を受けて鑑賞した人ではなかろうか。大掛かりなドッキリ、という説明を真に受けて鑑賞すると、明白なネタばらしが行われていないことに終始戸惑い、結末で放り出されたような感覚を味わう。そこで、「何じゃこりゃ」で済ませてしまう人にはおよそ面白くない作品になってしまうだろうが、観終わったあとでああでもないこうでもない、と解釈したがる人間には、妙な奥行きを持った、興味深い作品なのである。
最後に、ちょっとだけ余談。
上でもちらっと触れた、引退宣言後のホアキンにベン・スティラーが持ち込んだ脚本の正体だが、てっきり私は現時点でのベン・スティラー出演最新作『ペントハウス』のことだと思いこんでいた。しかし、役名がまるっきり違うので、改めて調べてみたところ、どうやら『イカとクジラ』のノア・ボーンバック監督作“Greenberg”のことらしい。
興味を惹かれたので、ちょっと鑑賞してみようか、と考えたのだが、どうやら日本ではスターチャンネルにて『ベン・スティラー 人生は最悪だ!』の邦題で放映されたのが最初で、以降現時点まで映像ソフトでのリリースもされていないらしい……そもそもこの作品自体が、アメリカでの公開から1年以上経てようやく日本に届けられたくらいであるから、観られるだけまし、とも言えるのだけど。
とりあえずタイトルは覚えておいて、鑑賞出来る機会に、ベン・スティラーがいったいホアキンにどんな役柄をオファーしようとしていたのか、ちゃんと確かめてみたいと思う。
関連作品:
『アンダーカヴァー』
『ペントハウス』
『イカとクジラ』
コメント