『さらば、わが愛/覇王別姫』

TOHOシネマズ日本橋、スクリーン9の前に展示された案内ポスター。 さらば、わが愛 覇王別姫 [DVD]

原題:“覇王別姫” / 英題:“Farewell to My Concubine” / 原作:リー・ピクワー / 監督:チェン・カイコー / 脚本:リー・ピクワー、ルー・ウェイ / 製作:シュー・ピン、シュー・チエ、チェン・カイコー、スン・ホエイ / 製作総指揮:トン・チェンニェン、シュー・フォン / 撮影監督:クー・チャンウェイ / 美術:ヤン・ユーフー、ヤン・チャンミ / 衣裳:チェン・チカーミン / 編集:ペイ・シャオナン / 音楽:チャオ・チーピン / 出演:レスリー・チャンチャン・フォンイーコン・リー、フェイ・カン、チー・イートン、マー・ミンウェイ、イン・チー、フェイ・ヤン、チャオ・ハイロン / 配給:ヘラルド・エース / 映像ソフト発売元:角川書店

1993年香港作品 / 上映時間:2時間52分 / 日本語字幕:戸田奈津子

1994年2月11日日本公開

2012年7月20日映像ソフト日本最新盤発売 [DVD Video:amazon]

第2回新・午前十時の映画祭(2014/04/05〜2015/03/20開催)上映作品

TOHOシネマズ日本橋にて初見(2014/04/05)



[粗筋]

 小豆子が北京に拠点を置く京劇の養成所に連れていかれたのは1925年、彼が9歳のときだった。母は娼婦だったが、成長した男の子を娼館に置くことは出来ず、そのために小豆子を預けたのである。座長は小豆に指が6本あることを問題視し拒絶するが、娼婦は小豆の指を1本切り落として、彼を残していった。

 娼館で育った小豆にとって、養成所の過酷な稽古はなかなか馴染むものではなかった。脱走の常習犯である小石頭や小癩子のお陰でどうにか暮らしには親しんでいったが、台詞がなかなか覚えられず、厳しく叱られることがしばしばだった。だがある日、小癩に誘われて逃げ出した先で、一流の京劇俳優が演じる『覇王別姫』を目にした小豆は、その美しさに見惚れ、初めて京劇に憧れを抱く。小癩とともに養成所に戻った小豆は、師匠たちの過酷な仕置きを甘んじて受け入れるが、小癩はその壮絶な姿に恐怖し、自ら命を絶ってしまった。

 やがて好機に恵まれた小豆は、小石頭演じる“覇王”の相方として“虞姫”を演じて好評を博した。小豆は程蝶衣(レスリー・チャン)、小石頭は段小楼(チャン・フォンイー)と芸名を改め、『覇王別姫』を得意とする人気俳優に成長する。

 演技に対する憧れを募らせ、女形として大成するために、女になり切ることを徹底して仕込まれた蝶衣は、役柄同様に相棒である小楼に恋慕にも似た情を抱くようになっていた。このままとこしえに、小楼と舞台に立っていられれば幸せだ、とさえ感じていた。

 だが、蝶衣の深い想いを知らない小楼は、芸の肥やしと言って娼館にもしばしば足を運んでいた。とりわけ、店いちばんの娼婦・菊仙(コン・リー)に執心していたが、折しも訪れたそのとき、酔客に悩まされていた彼女を救ったことでにわかに接近し、瞬く間に縁談へと発展する。

 突然現れた女――しかも娼婦に、小楼を奪われる。蝶衣に許せるはずもなかった。関係に深い溝が生じたが、それでもふたりは舞台に立ち続ける。

 蝶衣の平穏を脅かすのは菊仙の存在だけではなかった。折しも中国大陸は日本軍の台頭が進み、小楼と菊仙が祝宴を催したその夜に、北京は本格的な侵略を受けるのだった――

[感想]

 私のように偏ったかたちで香港映画を愛好している者には、“京劇”と聞くと実はまずジャッキー・チェンが思い浮かぶ。彼はユン・ピョウやサモ・ハンらとともに幼少時、京劇の養成所で訓練を受けており、その下地がのちの演技やアクションに繋がっていったという。実際、本篇は当初、小楼の役をジャッキーに依頼していたそうだが、本人のイメージに役柄がそぐわない、という理由から断ったらしい。……ちょっと観てみたかった気はするが、この頃はまだまだアクション中心で活躍し、そのなかで新しいスタイルを模索していたジャッキーが引き受けることはなかっただろう。

 本篇はその京劇の養成所がどんな姿であったのか、いったいどんな舞台を大衆に披露し、どのように受け入れられたのか、という流れを、ちょうど20世紀初頭から60年代あたりまでにかけて綴っている。日本人にとってあまり親しみのない京劇の描写も興味深いが、しかしそれ以上に、この伝統芸に携わってきたひとびとの目から見た歴史の過酷さがひしひしと伝わる内容である。

 本篇の巧妙なところは、京劇俳優が見た歴史、という側面を語るにあたり、“娼館”という要素を並行して採り入れていることだろう。説明が煩雑になるので詳しくは省くが、役者と娼婦というのは来歴や、社会的な位置づけにおいて近しい部分が多々ある。もともと娼婦の息子であり、しかも幼少時は多指症という理由からいちどは京劇の養成所からも疎んじられる、という蝶衣の背景は、重層的な差別を受けることを運命づけられたかのようだ。

 しかし、その“哀れ”な境遇に生まれついた己を呪う、といった描写は本篇にはない。蝶衣は終始、ただ生きることに必死だ。置き去りにされた養成所で必死に順応しようと試みるが、台詞覚えが悪く、過酷なしごきに耐えかねて逃走を試みるときも、あくまで念頭にあるのは“助かりたい”という心情だったはずだ。だが、人気の京劇俳優による“覇王別姫”を目にしたときから、芸への憧れが生まれる。師匠の助言に従い、女形として大成するために自分を女だ、と言い聞かせ役柄に同化した結果、蝶衣の小楼に対する感情は同性愛的なものに育って、いつしかとこしえに小楼と舞台に立つことが蝶衣の幸せとなった。その目的意識に、己の境遇に対する不満や恨みは――掘り下げれば見え隠れはしてくるが、決してあからさまではない。だから本篇は、その言動に妖しさをちりばめながら、純粋で艶やかな感動に彩られている。

 だが、そういう蝶衣を、社会の変化がとことん翻弄する。蝶衣はある意味で終始一貫しているが、社会の“京劇”というものに対する意識、捉え方がせいぜい10年程度のオーダーで頻繁に入れ替わり、その都度蝶衣や小楼たちを弄ぶ。

 本篇を観ていると、“革命”と謳っていても、それが本当に大衆を見ているのか、弱者を救うのかは開けてみなければ解らない、と感じてしまう。まだ頑是無い子供を、意志を無視して慰みものにするような状況もゾッとしないが、そういう虐げられた扱いを受けた彼らを、ある体制に属するひとびとが自らの利益のため、そして己の美学のために持てはやしたかと思えば、また新しい“為政者”たちが過去の行状の一側面を採り上げて理不尽に蔑む。蝶衣はもとより、京劇に携わるひとびとの多くは、恵まれない境遇の中で生きることに必死であり、結果辿り着いた名声であり、それが少なからずひとびとの娯楽として奉仕していたにも拘わらず、である。つくづく、“大衆”であり、“社会”として形成された大きな声の身勝手さに嫌気がさす。

 そうした側面を容赦なく切り取っているから、一途に芸を研ぎ澄まし、単純な幸せを望んだ者たちの悲哀に胸を突かれる心地がする。映像が、彼らの演じる舞台が美しければ美しいほどに、その情感が沁み入ってくるのだ。

 最終的には蝶衣も小楼も菊仙でさえも、けっきょくは自身の感情に振り回され哀しい結末を迎える。ただ、そこに籠められた純粋な情熱は、儚くも美しく観る者の心に響く。随所にエピソードの跳躍があり、想像で埋めなければならないから、最初は意味が解らない、と感じることもありそうだが、その“行間”まで含めて深い詩情を刻みつける名篇である。

関連作品:

10ミニッツ・オールダー 人生のメビウス』/『それぞれのシネマ 〜カンヌ国際映画祭60周年記念製作映画〜

男たちの挽歌』/『カルマ―異度空間―』/『レッドクリフ Part II―未来への最終決戦―』/『シャンハイ

ラスト、コーション』/『ブロークバック・マウンテン』/『ファイティング・マスター』/『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ/天地黎明』/『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ外伝/アイアン・モンキー』/『新ポリス・ストーリー

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