原題:“Gone Girl” / 原作&脚本:ギリアン・フリン(小学館文庫・刊) / 監督:デヴィッド・フィンチャー / 製作:アーノン・ミルチャン、ジョシュア・ドネン、リース・ウィザースプーン、セアン・チャフィン,p.g.a. / 製作総指揮:レスリー・ディクソン、ブルーナ・パパンドレア / 撮影監督:ジェフ・クローネンウェス,ASC / プロダクション・デザイナー:ドナルド・グラハム・バート / 編集:カーク・バクスター,A.C.E. / 衣装:トリッシュ・サマーヴィル / 音楽:トレント・レズナー&アッティカス・ロス / 出演:ベン・アフレック、ロザムンド・パイク、ニール・パトリック・ハリス、タイラー・ペリー、キャリー・クーン、キム・ディケンズ、パトリック・フュジット、エミリー・ラタコウスキー、ミッシー・パイル、ケイシー・ウィルソン、デヴィッド・クレノン、ボイド・ホルブルックローラ・カーク、リサ・ヘインズ / 配給:20世紀フォックス
2014年アメリカ作品 / 上映時間:2時間29分 / 日本語字幕:松浦美奈 / R15+
2014年12月12日日本公開
公式サイト : http://www.foxmovies-jp.com/gone-girl/
TOHOシネマズ西新井にて初見(2014/12/12)
[粗筋]
7月の朝、エイミー・ダーン(ロザムンド・パイク)が姿を消した。
通報したのは夫のニック(ベン・アフレック)である。自らが経営する“ザ・バー”から帰宅したニックは、リヴィングのガラステーブルが転倒し粉々になっているのを目にして異変を悟ったのだという。担当したロンダ・ボニー刑事(キム・ディケンズ)は明白な兆候と、凶悪犯罪が増加傾向にあることを念頭に、すぐさま事件性を認めて本格的な捜査に乗り出した。
実はエイミーはアメリカにおいてちょっとした有名人だった。母親のメアリーベス・エリオット(リサ・ヘインズ)は“アメイジング・エイミー”と題したシリーズでかつて人気を博した作家であり、エイミーはそのモデルだった。連絡を受けて、はるばるミズーリ州へと飛んで来たメアリーベスとランド(デヴィッド・エリオット)の夫婦は、捜索のために警察が設けた記者会見の席ですぐさま通報用の窓口を告知、あっという間に事件はミズーリ州全体の知るところとなる。
だが、失踪から程なく、事態は変化していった。記者会見や、捜索のボランティアのために用意された拠点で見せた些細な振る舞いがテレビやネットで悪意的に採り上げられると、地域住民達のニックに対する評価が急速に低下していく。
一方で捜査陣もまた、ニックに対する疑惑を次第に深めていた。かつてニューヨークで華やかな仕事に就いていたダーン夫婦は、しかしニックの失業と母親の罹病によってミズーリへ転居してきた。資金はエイミーが幼少時から積み立てられていた信託のみで、携帯電話や家の契約、更には“ザ・バー”の権利でさえエイミーの名義になっている。彼の出費や最近の行動を追ったボニー刑事は、浪費癖を探り当て、エイミーが書いていた手記の存在も探り出した。
だが、事件として立証するために必要なもの――屍体が出てくる兆候は未だに、ない。果たしてエイミーはどこに消えたのか? 本当に、ニックがエイミーを殺害したのだろうか……?
[感想]
観終わったときの衝撃は表現しにくい。とにかく私は、本気で震えていた――気温が低く自分も風邪気味だ、というのを差し引いても、この感覚に嘘はない。
本当のところ、あまり予備知識を持たずに観るのがいちばんいいのは間違いない。仮に持ってしまったとしても、予告篇で描かれている分だけ、せめて上の粗筋程度に留めたほうがいいだろう。その程度で踏みとどまっていれば、きっと最高に本篇の趣向を味わえる。
基本はミステリであり、最後まで仕掛けに満ちた本篇はまさしくサスペンスの名作に名を連ねるべき出来映えだが、しかし本篇はその徹底ぶりが優れているが故に、様々なジャンルの側面を覗かせる。中には鑑賞するまで知らない方がいい側面も多々含まれているので具体例が挙げにくいが、とりあえずは長年、問題として取り沙汰される“メディア・スクラム”をより現代的に採り上げている点はまず注目すべきだろう。
ワイドショーでの過激な批判、未だ容疑の段階であることを一切考慮しない言及ぶりもさることながら、印象的なのは恐らく職業的に報道に従事しているわけではないひとびとの振る舞いだ。本人たちは恐らく純粋に社会正義や大勢の好奇心を満たそうという目的意識に駆られているつもりかも知れないが、その実無神経で、当事者たちを著しく動揺させる振る舞いを随所で見せる。関係者の周囲に集まるのは、物見高い野次馬ばかりであり、軽率な正義感や好奇心で当事者を翻弄する。たいていの場合、その行動がもたらす結果には大して興味がない。個人が世界に情報を発信する機会が大幅に増えた現代の群像を、ネットワークそのものを描くことなく巧みに切り出している。
考えてみると、本篇におけるネットワーク社会の表現は、フィンチャー監督の先行作『ソーシャル・ネットワーク』を踏まえている、と言えるかも知れない。映画の中では描きにくいネットワークの状況を、それがもたらす人間関係の変化を通して描写する。本篇では一部の突出した情報発信者や、それに煽動されるひとびとの反応を使って、昔よりもはるかに凄まじい波及力を持つ“噂”の影響を見せつけている。
だが本当に恐るべきは、このくだりが導入にしか過ぎないことなのだ。スタッフ・キャストが公の場に現れるとき、監督が人一倍神経質になった、というのも頷ける話で、本篇は中盤以降の“怒濤”としか言いようのない展開にこそ真価がある。そこには、序盤で描かれた“情報”の危うさ、という要素も孕みながら、まったく違った恐怖が徹底して織り込まれているのである。
面白いのは、一連の出来事が、当事者の目線に立てば熱狂と恐怖に彩られるのに、いったん第三者の視点に立ってみると、そこには歪んだユーモアが満ちあふれているということだ。当事者の感情を一切汲み取らないひとびとの行動もそうだが、その背景を疑ってかかるひとびとの噛み合わない認識、そこから始まる異様な展開。こうした趣向が、実は中盤以降のプロットにも見え隠れする。誰にも無縁でない人間関係の中に現れるこうした醜悪なユーモアが、本篇の不気味な熱気を生み出し、観客を牽引せずにおかない。なんて話だ、と呆気にとられながらも、作品世界に取り込まれている自分がいたことに、恐らく観終わったあとで気づくはずだ。
R15+とやや高めのレーティングが施されているがそれも宜なるかな、本篇には『ファイト・クラブ』『ドラゴン・タトゥーの女』とヘヴィな暴力表現をしばしば採り上げてきたフィンチャー監督らしく、極めてどぎつい暴力を織り込んだくだりがある。だが、仮にもし暴力描写がもっと抑えられていたとしても、本篇には高いレーティングが相当だったし、そうあるべきだ、と個人的には思う。本篇が作品全体で描き出したものは、あまりに人間の本質を抉りすぎており、“猛毒”と呼ぶに相応しい。
語ろうと思えばもっと語れるが、どうやっても中盤以降の趣向に触れずにはいられなくなる。とりあえず、映画界において独自のスタイルを築いてきたデヴィッド・フィンチャー監督のエッセンスが凝縮された、現時点での最高傑作である、と断じたい――観終わってだいぶ経つのに、思い返しただけで震えがふたたび来るくらいに、この作品は、凄い。
関連作品:
『パニック・ルーム』/『ゾディアック』/『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』/『ソーシャル・ネットワーク』/『ドラゴン・タトゥーの女』
『アルゴ』/『アウトロー』/『プレシャス』/『しあわせの隠れ場所』/『ホースメン』/『アーティスト』
『ゴーン・ベイビー・ゴーン』/『チェンジリング』/『誰も守ってくれない』/『ゼロの焦点』/『トールマン』/『フライト』/『プリズナーズ』
コメント
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