『の・ようなもの のようなもの』

新宿ピカデリー、スクリーン10入口に表示されたポスター。

原案:森田芳光 / 監督:杉山泰一 / 脚本:堀口正樹 / プロデューサー:三沢和子、池田史嗣、古郡真也 / 製作総指揮:大角正 / 撮影:沖村志宏 / 美術:小澤秀高 / 照明:岡田佳樹 / 録音:高野泰雄 / 編集:川島章正 / 音楽:大島ミチル / 主題歌:尾藤イサオ『シー・ユー・アゲイン雰囲気』 / 出演:松山ケンイチ北川景子伊藤克信、尾藤イサオ、でんでん、野村宏伸、戸谷公人、大平夏実、菅原大吉、小林まさひろ、小林麻子、大野貴保、内海桂子、小林トシ江、古今亭志ん橋、荒谷清水、真凛竹内寿、横田鉄平、白木隆史、鏡味仙三郎社中、古今亭志ん丸、古今亭志ん八、若月大地、藤村周平、ピエール瀧鈴木亮平鈴木京香佐々木蔵之介塚地武雅笹野高史宮川一朗太仲村トオルあがた森魚三田佳子 / 配給:松竹

2016年日本作品 / 上映時間:1時間35分

2016年1月16日日本公開

公式サイト : http://no-younamono.jp/

新宿ピカデリーにて初見(2016/2/20)



[粗筋]

 出船亭志ん扇師匠が亡くなって12年。一門による十三回忌追悼会の企画が持ち上がったとき、一門のパトロンである斉藤会長(三田佳子)から、「志ん魚(伊藤克信)の“出目金”が聞きたい」という頼みがあった。

 現在、一門を取り仕切る志ん米(尾藤イサオ)らは困惑する。志ん扇師匠が亡くなったあと、志ん魚はふらりと姿を消し、以来ずっと行方が解らないのだ。落語から離れて長い時間が経ち、高座に就ける腕があるのかも謎だが、会長を納得させるにはひとまず居場所を見つけて説得しなければならない。

 そこで志ん米は、内弟子である志ん田(松山ケンイチ)を捜索に駆り出した。

 もとプログラマーで、一念発起して落語家に転身した志ん田には、当然ながら志ん魚との面識はない。心許ない手掛かりを辿って東奔西走するが、実家は既になく、別れた妻は志ん田に会うことも拒む始末だった。

 見つけられなきゃ帰ってくるな、とまで言われ、散々探し回った志ん田だったが、尋ね人の痕跡は意外と近いところで見つかった。志ん米の一粒種、由美(北川景子)が聞きつけてきた目撃情報によれば、志ん魚は志ん扇の墓にしばし現れるのだという。

 果たせるかな、志ん魚は亡き師匠の墓に日参していた。志ん田はさっそく説得を試みるが、志ん魚は「自分は燃え尽きた」と取り付く島もない。しかも、昔作った“出目金”のノートはとっくに始末したという。しかし、志ん田もあとには引けなかった。谷中界隈で便利屋のような仕事をして生計を立てている志ん魚に噺を思い出すことに集中してもらうべく、同居して仕事を肩代わりし始めるのだった……。

[感想]

 森田芳光監督はデビュー作『の・ようなもの』について、「続篇は作れない」という認識だったらしい。その発言を愚直に踏まえれば、本人の死後に作られた本篇は冒涜の極み、とも言えそうだが、しかしそうはなっていない。

 そもそも、『の・ようなもの』の続篇が作れない、というのは、ストーリーがもはや付け足す必要のないほどに完成されている、という意味ではない。これが初めての長篇映画であり、映画作りについて何も知らないから出来た作品だった、という意識が言わせた言葉のようだ。実際、日本映画を代表する監督のひとりとなってなお、あれほど“怖いもの知らず”な作品をもういちど撮る、というのはたぶん不可能だ。とりわけ、思い入れの強い監督自身が手掛けるのは、気持ちの上で障害があるのは確かだろう。

 だが、森田監督は病によってこの世を去ってしまった。残されたスタッフが、追悼の想いを捧げて作るには、監督の原点であり、しかも完結していない『の・ようなもの』の後日譚を選ぶのは、趣向としては悪くない。

 それも、単純に年老いた登場人物たちのその後を描く、という考え方に走らなかったのは非常に賢明だ。前作の主人公・志ん魚は変わらず中心人物ではあるが、物語の本当の主人公は、かつての志ん魚と同じような立ち位置にいる志ん田に移した。彼を通して描かれるのは、前作の当時とは異なる時代の文化に育まれた人物が目撃する、依然と似ているようで少し違う落語の世界であり、その中で葛藤してきた先輩たちの姿だ。

 本篇のスタッフたちはこの構図のなかに、物語の登場人物たちの時間経過や流行の移り変わりだけでなく、森田監督作品の世界観への想いを詰め込んだ。森田作品は数えるほどしか観ていない私なので、このあたりはプログラムの解説に頼らざるを得ないが、しかし随所に顔を見せるカメオ出演の豪華な顔触れだけでも、スタッフの熱意や、それに応えるキャストの心意気が窺える。

 そしてストーリー的にも、『の・ようなもの』の世界観は引き継ぎつつも、あの作品のように目的も着地点もあえて不明瞭なまま語る、というやたらに挑発的な趣向に走りすぎることなく、きちんと練られたプロットと明確な着地点を定めて臨んだのは、判断として正しい。表現や趣向に突き進んで、物語としてのカタルシスには強く拘らない前作のような作りは、それこそ怖いもの知らずの若いスタッフばかりだからこそ可能だったことだろう。その1作目から演出助手として森田監督についてきた杉山泰一監督は長篇映画こそ本篇が初めてだが、映画に携わっていたキャリアは長い。他にも加わっている森田組のスタッフにしても、既に充分な経験を積んできた人々ばかりだ。そういう経験を無視して、若々しく斬新なものを撮ろうと思っても、恐らく無理が生じたに違いない。きちんと結構を考慮した、ひねりを入れつつも綺麗な着地を選んだのもまた当然だろう。

 そういう考え方、作り方をしている作品なので、『の・ようなもの』を初公開時に鑑賞して衝撃を受けたひとが、同様な刺激を求めて鑑賞したとしたら、恐らく期待外れ、それこそ冒涜のように感じるかも知れない。しかし、時間の経過と森田監督の不在を理解しているひとは、本篇の方法論と完成した内容にある程度は納得がいくはずだ。また何よりも、前作の世界観を踏まえつつも、新しい落語家の視点から綴った本篇は、違った物語として受け止めることが出来る。

 違った物語であるから、ぶっちゃけ『の・ようなもの』を知らなくとも観て問題はない。現代の落語家の姿を垣間見つつ、同じような夢を見ていた人々のその後の姿と対比し、現在の志ん魚が暮らす町の人々との交流と併せて描いた本篇には、人情コメディのような味わいがある。それも、『の・ようなもの』の登場人物たちの描き方を踏襲し、誰も彼も善人のように描かず、しかし悪意を持っているように描くこともしないので、程よい距離感を保っているのが快い。終盤の展開もまた、安易に何もかも丸く収めようとしていないが、それ故のカタルシス、というところに落とし込んでいて、単品として志ん田という若い落語家の成長を軸としたドラマとしてもまとまっている……ただ、プログラムで杉山監督らが言及している“アンチロマン”という狙いは外していると思うが。あのクライマックスの展開はむしろ想像の範疇内であり、いささか自己陶酔的でもあり、そこを自覚していないのはちょっといただけない。

 落語の世界が前作ほどには掘り下げられていないことや、序盤でけなされているわりに松山ケンイチが達者すぎて志ん田の“拙さ”が印象づけられず、終盤での変化を際立たせることには成功していない、など細かな嫌味はある。とはいえ、亡き森田監督への敬意、という形で織り込まれた優しさや観察眼、風景の捉え方が息づいた本篇は、観ていていい気持ちになれる。

 翻って、もし森田監督がいまも存命であり、『の・ようなもの』からもっと長い時間を経ていたなら、恐らく撮られることは決してなかっただろう。つまるところ本篇は、森田監督が早くにこの世を去ってしまったからこそ撮ることが出来た作品、と言える。ならばやはりこれほど追悼に相応しい題材はなく、その意味において実に美しい仕上がりを示している。

 単品でも、少しユニークな人情コメディとして楽しめるが、より深く味わいたいなら、最低限『の・ようなもの』だけは観ておくことをお勧めする。もっと堪能したいなら、上の一覧に名前を連ねたキャストが出演する森田監督作品を観ておくべきだろう。

関連作品:

の・ようなもの

模倣犯』/『椿三十郎』/『武士の家計簿

春を背負って』/『犬神家の一族(2006)』/『(さけび)』/『清須会議』/『歌謡曲だよ、人生は』/『逆境ナイン』/『ALWAYS 三丁目の夕日’64』/『風に立つライオン』/『残穢 −住んではいけない部屋−』/『テルマエ・ロマエII』/『呪怨 白い老女

異人たちとの夏』/『「超」怖い話 THE MOVIE 闇の映画祭

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