原題:“Wonderstruck” / 原作&脚本:ブライアン・セルズニック / 監督:トッド・ヘインズ / 製作:クリスティン・ヴァション、パム・コフラー、ジョン・スロス / 製作総指揮:ブライアン・ベル、サンディ・パウエル / 撮影監督:エド・ラックマン / プロダクション・デザイナー:マーク・フリードバーグ / アート・ディレクター:ライアン・ハック / 編集:アルフォンソ・ゴンサウヴェス / 衣装:サンディ・パウエル / キャスティング:ローラ・ローゼンタール / 音楽:カーター・バーウェル / 出演:オークス・フェグリー、ミリセント・シモンズ、ジュリアン・ムーア、ジェイデン・マイケル、コーリー・マイケル・スミス、トム・ヌーナン、ミシェル・ウィリアムズ、エイミー・ハーグリーヴス、モーガン・ターナー、ソウヤー・ニューンズ、ジェームズ・アーバニアク / キラー・コンテント/シネティック・メディア製作 / 配給&映像ソフト発売元:KADOKAWA
2017年アメリカ作品 / 上映時間:1時間57分 / 日本語字幕:松浦美奈
2018年4月1日日本公開
2018年8月24日映像ソフト日本盤発売 [DVD Video:amazon]
公式サイト : http://wonderstruck-movie.jp/
[粗筋]
ベン(オークス・フェグリー)のたったひとりの家族である母エレイン(ミシェル・ウィリアムズ)が、交通事故で亡くなった。
ひとりぼっちになったベンは、そばに暮らしていた伯母ジェニー(エイミー・ハーグリーヴス)の家に引き取られる。けれど、それからも伯母の目を盗んで、母と暮らしていた家にときどき籠もっていた。
とある嵐の晩、もとの家に人の気配を感じたベンが探りに入ると、そこには伯母の娘であるジャネット(モーガン・ターナー)の姿があった。夜遊びを咎められていたジャネットに、伯母には話さない、と約束すると、彼女はやや不安げな表情をしながらも出て行く。
そのときベンは、家の中で古い1冊の本を見つける。『ワンダーストラック』というタイトルが冠されたその本には、“キンケイド書店”という店名の入ったしおりが挟んである。そこには小さく、“ダニーより、愛をこめて”というメッセージが記されていた。
ベンは父親を知らない。エレインは最後まで、父がどこの誰なのか、ベンには話さなかった。期待と不安をこめて、ベンが電話の受話器を取り、“キンケイド書店”の番号を回した、そのとき――家に雷が落ちた。
次に気づいたとき、ベンは病院にいた。落雷は電話線を経由してベンに達し、彼の聴力を奪っていた。
音を失ったことの不安も大きかったが、それ以上にベンは、ようやく見つけた“父”の手懸かりが気にかかっていた。ジャネットに荷物を用意してもらうと、病院を抜け出し、ハスに乗り込む。目指す先は、ニューヨーク――
――その、およそ50年も前のこと。また別の場所から、ベンと同じように、ひとりニューヨークを目指して旅立った、ひとりの少女がいた。彼女の名はローズ(ミリセント・シモンズ)。彼女もまた、音の世界に生きる少女だった……
[感想]
トッド・ヘインズという監督は、“映画”という表現手法に対して非常に真摯だと思う。書き割りじみた画面作りで残酷なほどリアルな愛を描き出した『エデンより彼方に』、不世出のミュージシャンの人生を年代も性別も異なる俳優に演じさせる実験的手法を用いた『アイム・ノット・ゼア』、近作の『キャロル』はこれらに比べると正攻法だが、登場人物の視点に迫るカメラワーク、圧倒的な構図の巧さが物語の説得力を増している。
本篇においては、中心となるふたりの子供視点での物語を、無声映画的に表現する、という趣向を用いている。聴力が弱く、音声がほんのざわめき程度にしか聴こえない世界を随所で再現しつつ、多くの場面は音楽のみで描写する。カメラの位置を低くすることで子供たちの視線をよりリアルに再現しており、観る側に彼らの冒険を疑似体験させるかのようだ。
そして、描かれる冒険も子供の目線に合わせている。主軸となるベンの冒険は、名前も知らない父親の手懸かりだ。もともとの自宅に仕舞ってあった本に挟まれていたしおり、という手懸かりは、大人の目線からすると少々心許なく、しかもそれ自体検証の難しくないものだ。しかし、ベンは母親を喪い、物語が始まった時点では頼れる相手がいない。助言を得ることも出来ない一方で、家族の存在を希求する想いは人一倍強く、それがベンを冒険へと駆り立てた。
もう一方のローズの冒険については、本篇はあまり背景を明瞭にしない。受け身で鑑賞していると、彼女がどういう境遇にあるのかさえ解らないだろう。彼女の旅の目的は何なのか、そしてベンの物語とどんな風に関わっていくのか、という謎を終盤まで孕みながら、ローズの物語は綴られる。
こんな風に、本篇はふたつの物語を、同じ子供視点でありながら異なる切り口で描いて、同じような“冒険者”であるにも拘わらず、違った印象で見せていく。位置づけの異なる謎を重層的にも展開させており、こうした趣向が、子供の冒険を描いているとは思えない奥行きを生み出しているのだ。
取っかかりに限らず、本篇は終始、子供の目線、心情に寄り添っている。それが特に窺えるのは、やがて辿り着いたニューヨークで巡り会う少年とのエピソードである。ベンは少年と親しくなる一方、彼のある行動に心が傷つくのだが、少し引いた眼で鑑賞すれば、少年の心情は理解できるはずだ。
そして、本篇の肝は実のところ、この少年の行動が象徴している。一見、子供向けに作られているかに映る本篇だが、しかしその謎の配置は巧みで、易々と全容は読み解けない。そして、観終わったあとに吟味すれば、その主題と表現手法が見事に一貫していることに気づくはずだ。
ふたりの子供は冒険の果てに“宝物”を手に入れる。しかし、それは決して珍しいものではない。しかし、ありふれたものが、この物語のなかでははっきりと貴重なものとなり、目映いばかりの輝きを放っている。そうさせているのが、子供ゆえの純真さと、“冒険”というプロセスなのだ。
ここで描かれていることの多くは、よくよく考えれば特殊なものはほとんどない。ファンタジー的な要素に頼ることなく、重要な役割を果たす施設も実在のものを用いている。しかし、これほど地に足の着いた描写で固めているにも拘わらず、その結末はまるで宝石箱めいている。
現実の中にあるロマン、冒険、そして幸せというものを、映画的な手法によって照らし出している。映画であることを高らかに誇るような、そんな類の傑作なのである。
余談。
本篇ではデヴィッド・ボウイの曲を印象的に用い、エンドロールでは一風変わったカバー版を採用している。作品の時代背景と表現をうまく掛け合わせた絶妙な趣向だ、と思うのだが――個人的には「またかよ」と呟いてしまった。
本篇の少し前に封切られた『ヴァレリアン 千の惑星の救世主』という映画でも、同じ曲が導入に使われていた。更にもう少しあとに公開された『ワンダー 君は太陽』では、この曲にちなんで主人公を“メイジャー・トム”と呼んでいるくだりがある。
咄嗟に挙げられないのが歯痒いが、宇宙開発をテーマにしていたり、80年代、90年代あたりの時代を背景とした作品では、かなり頻繁に引用されているように思う。それがたまたま短い期間に立て続けに封切られた、というだけの話ではあるが――それでもちょっと使いすぎな気がします。
関連作品:
『エデンより彼方に』/『アイム・ノット・ゼア』/『キャロル』/『ヒューゴの不思議な発明』
『キングスマン:ゴールデン・サークル』/『サバービコン 仮面を被った街』/『脳内ニューヨーク』/『オズ はじまりの戦い』/『ゲティ家の身代金』
『タイムマシン』/『ナイト ミュージアム』
『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』/『ムーンライズ・キングダム』/『思い出のマーニー』/『犬ヶ島』
『アーティスト』/『聲の形』/『シェイプ・オブ・ウォーター』/『ワンダー 君は太陽』
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