原題:“The Return of the Living Dead” / 監督・脚本:ダン・オバノン / 原案:ルディ・リッチ、ラッセル・ストレイナー、ジョン・A・ルッソ / 製作:トム・フォックス / 製作総指揮:ジョン・ダリー、デレク・ギブソン / 共同製作:グレアム・ヘンダーソン / 撮影監督:ジュルス・ブレナー / プロダクション・デザイナー:ウィリアム・スタウト / 美術監督:ロバート・ホウランド / 編集:ロバート・ゴードン / 特殊効果スーパーヴァイザー:ロバート・E・マッカーシー / キャスティング:スタンジ・ストークス / 音楽:マット・クリフォード / 出演:クルー・ギャラガー、ジェームズ・カレン、ドン・カルファ、トム・マシューズ、ベヴァリー・ランドルフ、ジョン・フィルビン、ジョエル・シェパード、ミゲル・ヌナス、ジョナサン・テリー、キャスリーン・コードウェル / 配給:東宝東和 / 映像ソフト発売元:20世紀フォックス ホーム エンターテイメント
1985年アメリカ作品 / 上映時間:1時間31分 / 日本語字幕:進藤光太
1986年2月15日日本公開
2008年10月24日DVD日本最新盤発売 [bk1/amazon]
DVDにて初見(2010/02/24) ※公開時か、それ以降に観たはずですがほぼ記憶なしなので。
[粗筋]
1984年7月3日、東部夏時間午後5時30分、ユーニーダ医薬品倉庫に就職したフレディ(トム・マシューズ)は同僚のフランク(ジェームズ・カレン)から不気味な話を聞かされる。映画『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』で描かれているのは、ほぼ現実の出来事だというのだ。陸軍で作られた薬物の影響で屍体が蘇る、という事件が発生し、それはタンクに密封されて、あろうことかこの倉庫に保管されている、という。フランクに導かれて、地下室に保存された薄気味悪い屍体詰めのタンクを見せられたフレディだったが、そのとき突如、タンクから薬品が漏出した。
昏倒し、数分後に目覚めたフレディとフランクは、医大に提供する予定だった屍体が動き出して、保管庫から出ようと暴れている、という状況に出くわす。苦慮したフランクは倉庫の経営者であるバート(クルー・ギャラガー)に連絡を取った。やって来たバートは、事態が公になれば倉庫は倒産する、と隠蔽を画策する。例の映画に倣って、屍体の頭をツルハシで打ち貫くが、動きやむ気配はない。やがてバートは近くにある火葬場に向かい、長い付き合いのアーニー(ドン・カルファ)に助けを求めた……
同じ頃、倉庫と火葬場とのあいだに位置する墓地には、フレディの恋人ティナ(ベヴァリー・ランドルフ)たちが集まっていた。彼が就職した、という話に驚いた友人たちが、迎えに行く、というティナについてきたのだが、騒いでいるうちに時間を忘れてしまう。やがて、はしゃぐ彼らの頭上から、大粒の雨が降り注いできた。
ティナたちは知るよしもなかった――その雨粒には、アーニーの提案によって焼却された屍体の煙が混ざっていたことを。それがいったい、どんな事態を招こうとしているのかを……
[感想]
ジョージ・A・ロメロによって完成され、急激に多くのフォロワーを生むこととなったゾンビ物の、ごく初期に作られたパロディ映画である。
雰囲気の古めかしさ、表現の拙さはさすがに幾分目につくが、ことロメロの完成させたゾンビ物のパロディ、という意味では驚異的な完成度を示している。
まず、ロメロによるゾンビ映画第1作『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』を、実話をもとにした作品という前提にして、登場人物の一部にその知識をもとにした行動を取らせていることが絶妙だ。ゾンビ映画では、その倒し方を知っている人間を介入させるのに苦労することがままあるが、この前提であれば、映画に描かれていた倒し方を試すのは普通だし、その結果に対する反応がイヤでも笑いを誘う。
そして、映画で描かれていたゾンビの退治の仕方が、基本的にすべて無効であることがまた巧い。約束では、ゾンビといえども行動に筋肉や脳味噌が必要であり、その連絡を絶つ=脳を破壊する、或いは首を切断することで行動を止めることが出来る、というのが道理だが、そもそもどういう原理で復活するのか解らないのだから、この公式を無視すること自体が登場人物を脅かし、観る側にある種のカタルシスを齎す。そして、このひとひねりが更なる事態の自然な悪化を導くきっかけになっているのだから堪らない。当事者にとっては悲劇だが、観る者にとっては喜劇以外の何ものでもない。
一方で、ところどころに“不自然ではないか?”と首を傾げるほど過剰な趣向も同時に盛り込んでいるのがまた効いている。完全にゾンビ化するなり激しく脳味噌を欲する、という理屈が通っているのか通っていないのか不明な設定そのものに妙な魅力があるが、これを敷衍して描かれる出来事、リアクションの数々がまたおぞましくも可笑しい。こと、終盤あたりで被害が急激に拡大していく経緯など、ロメロのゾンビ映画にはあまり見られないものだし、安易に組み込んでいれば安易の誹りを免れない。その過剰さを素直に愉しめてしまうのが本篇の優秀さを裏付けている。
悪い条件が幾重にも積み上がり、もはや抜け出す術はない、と思わされた挙句に提示される結末のインパクトも素晴らしい。普通なら怒りかねない趣向なのだが、本篇のような描写の仕方、ムードの醸成をしたうえでは、大人しく受け入れる意外にない。この、快い脱力とも言える後味は唯一無二のものだ。
監督と脚本を手懸けたダン・オバノンはこれに先んじて『ゾンゲリア』という、こちらは更に正統派のゾンビ物の脚本を担当しているが、こちらも“ゾンビ”の特質を活かした心理描写に、結末のひねりが実に哀しくも快い上質の作品である。当初打ち出したスタイルから基本的にはみ出すことなく、ゾンビというモチーフに社会諷刺の意図を組み込んだ作品を現在に至ってもなお発表しつづける“始祖”ジョージ・A・ロメロも大変に頼もしいが、これほどゾンビという題材を巧みに活かしたダン・オバノンにも、出来ればあとひとつぐらい、マニアを唸らせるような趣向を凝らしたゾンビ映画を撮って欲しかった、と惜しまれてならない。
しかしいずれにせよ本篇が、“ゾンビ映画”という枠組が映画界に存在し続ける限り、確実に語り継がれていく傑作であることは確かだろう。最近のゾンビ映画に触れて魅せられていった方は無論のこと、大昔に観て大した印象も残っていない、という方にも改めて鑑賞していただきたい。ロメロやその他のフォロワーが作るものとは違う衝撃、驚きを味わえるはずだ――かくいう私がそうだったのだから。
と、ここまでで語ったのは映画そのものの意義であり、魅力であったが、日本人にはもうひとつ、別の楽しみがある――ホラー映画愛好家には今更言わずもがなのことだろうが、ご存じない方のために最後に触れておきたい。
本篇、『バタリアン』という邦題がつけられているが、よくよくオリジナル音声の会話に耳を傾けても、この単語には遭遇しない――もしかしたらどこかに潜んでいるかも知れないが、少なくとも私は確認できなかった。
だが、字幕にはきちんと登場する。しかも冷静に見ると、実に奇妙なタイミングなのだ。いつ誰がそう呼んだわけでもないのに、いきなり“バタリアン”という単語で感染者を呼ぶ。もっと著しいのは、窓を破って襲いかかってきたゾンビの上半身を切り落とし、縛りつけた上で人間を襲う目的を訊ねるシーンだ。捕らえた側は、英語では“Can you hear me?”、つまり意思の疎通が出来るかと質問し、ゾンビは単に“Yes”と応えているだけなのに、字幕では何と「名前は?」と訊き、「オバンバ」と返答したことにされている。
この潤色は、どうやら配給会社が宣伝に用いるために施した工夫だったようだ。作中に登場する感染者を従来のゾンビとは別の括りで捉えさせると共に、特に個性的なものについては固有名を与えて際立たせてしまったらしい。
いま下手にこんな真似をすれば激しく叩かれそうなものだが、こういう過剰な趣向が許された当時の映画業界の風潮と、それが見事に当たって、“オバタリアン”なる別の流行語誕生のきっかけをも作ってしまった、という事実に驚き、感心させられる。
流行からだいぶ時が過ぎたことを思うと、観る者に違和感を与えないためにも、もう少し本来の会話に添った字幕を新たに作ってもいいのではないか、と思うが、仮にそれが実現したとしても、上映当時の雰囲気を忍ばせる字幕は保存されることを願いたい――これはこれで、充分に笑える。
関連作品:
『ゾンゲリア』
『ゾンビーノ』
コメント
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