原題:“Mary Poppins” / 原作:パメラ・L・トラヴァース / 監督:ロバート・スティーヴンソン / アニメーション監督:ハミルトン・ラスク / 脚本:ビル・ウォルシュ、ドン・ダグラディ / 製作:ウォルト・ディズニー、ビル・ウォルシュ / 撮影監督:エドワード・コールマン / 美術総監修:ケン・アンダーソン / 編集:コットン・ウォーバートン / 作曲:アーウィン・コスタル / 音楽:ロバート・B・シャーマン、リチャード・M・シャーマン / 出演:ジュリー・アンドリュース、ディック・ヴァン・ダイク、デヴィッド・トムリンソン、グリニス・ジョンズ、ハーマイアニ・バドリー、ジェーン・ダーウェル、カレン・ドートリス、エルザ・ランチェスター、マシュー・ガーバー、アーサー・トリーチャー、レジナルド・オーウェン、エド・ウィン / 配給:ブエナ・ビスタ
1964年アメリカ作品 / 上映時間:2時間20分 / 日本語字幕:松浦美奈
1965年12月10日日本公開
2005年1月21日映像ソフト日本最新盤発売 [DVD Video:amazon]
新・午前十時の映画祭(2013/04/06〜2014/03/21開催)上映作品
第三回新・午前十時の映画祭(2015/04/04〜2016/03/18開催)上映作品
午前十時の映画祭9(2018/04/13〜2019/03/28開催)上映作品
TOHOシネマズ六本木ヒルズにて初見(2013/09/04)
[粗筋]
1910年のイギリス、ロンドン。銀行の重役であるジョージ・バンクス氏(デヴィッド・トムリンソン)とその妻ウィニフレッド(グリニス・ジョーンズ)のあいだには、ジェーン(カレン・ドートリス)とマイケル(マシュー・ガーバー)という腕白盛りの子供がいる。ちょっと外出すると、眼を盗んで行方をくらますなど頻繁に騒動を起こすので、なかなか乳母が居つかないほどだった。
またしても新しい乳母を募集する必要に駆られた一家だが、これまでのようにウィニフレッドに任せていては長続きしない、と考えたジョージは、新聞に広告を出し、自ら面接を行うことに決める。
やって来たのは、メリー・ポピンズ(ジュリー・アンドリュース)と名乗る、若く快活な女性だった。自分が定めた募集条件ではなく、子供たちが並べた願望のほうに近い人物像にジョージは困惑したが、彼女の勢いに押されて雇い入れてしまう。
ジェーンとマイケルは、父親にあっさりと却下された要望通りの乳母が来たことに大喜びだが、メリーはふたりの想像を超えていた。鞄からは帽子掛けやランプなど、ありとあらゆるものが出て来て、片付けが下手な子供たちにちょっとした魔法を伝授する。
子供たちの日課であり、乳母たちを悩ませていた散歩も、メリーが先頭に立つと驚きの冒険に一変する。公園で様々な芸を披露しているバート(ディック・ヴァン・ダイク)が舗道に描いた絵のなかに飛び込み、中の世界での遊びを体験させてくれるのだ。
不思議な力を持つ謎の乳母メリー・ポピンズの介入は、バンクス家の空気を一変させた。子供たちに手を焼いていたメイドたちも感化され、気づけば家の中の雰囲気はすっかり明るくなっている。堅物である家長にとって、その変化は不可解だったが、メリーはそんな彼に、子供たちを職場に連れていき、仕事ぶりを見せるべきだ、と提案する……
[感想]
実写とアニメーションとを合成する、という趣向は、いまでもまだ際物扱いされているきらいはあるが、さほど珍しいものではなくなった――そもそも近年の特撮はCGアニメーションとの融合、とも言えるわけで、ほとんどの大作がこの趣向を応用している、と言えなくもないのだが。
しかし本篇が製作された1964年には一般的なものでは決してなかった。多くの子供が夢想した、アニメーションの世界に飛び込む、というシチュエーションをこれほどしっかりと映像化した作品が、記憶に残るのは宜なるかな、と思う。
ただ、正直なところ私は、最後までこの作品の雰囲気に馴染むことが出来なかった。
物語のなかの世界は現実とは別物、入り込みたくない、と考えているから――というのも若干ないではないが、私が本篇を評価しづらいのは、描くべきものが大幅に不足していることだ。
まず、当初の中心人物であるバンクス家の子供たちだ。彼らは乳母を悩ませ、彼女たちが家に居つかない原因となるほどの腕白、という表現が為されているが、しかし作中描かれている行動からは、彼らがそれほどの問題児には思えない。目を離した隙に離れてしまう、という子供は迷惑だが珍しいわけではないし、片付けが下手なのもよくあることだ。この程度で音を上げてしまう乳母のほうが問題だろうし、仮に耐えがたいほどそうしたトラブルを起こす、という設定であったとしても、どのくらい厄介なのか、が描かれていなければ共感はしにくい。
もっと問題なのは、そんな子供たちのもとになぜメリー・ポピンズという、明らかに物質世界とは異なる法則のなかで生きている“スーパーヒロイン”が現れたのか、ろくに理由が提示されないことだ。なぜここを選んだのかも解らなければ、その結果として子供たちをどんな風に育てたかったのか、もいっさい明示されない。両方を描く必要はないと思うが、どちらか一方でもきちんと定めていれば、これほど散漫とした印象を与えなかっただろう。
メリー・ポピンズの言動に目的意識が見られないから、物語の展開にも筋が通っていない。片付けの愉しさを教えようとしている、にしては魔法で簡単に片付けられることを示してしまっているから効果は上げていないし、散歩のたびに勝手に動き回って迷子になる、という問題は、絵の中に入り込んだあと、子供たちを放置する、というかたちでけっきょく再現してしまっている。その後あっさりと合流するが、けっきょく教訓にもなっていなければ、メリー・ポピンズの意図もよく解らず、ただ子供同然に遊んでいるだけにしか思えないのだ。せめて終始子供たちと愉しんでいるなら理解できるが、ほったらかしてバートとの擬似恋愛的な駆け引きに興じているのだからよけいにピンと来ない。
終盤でメリーは子供たちの父親に、自分の職場を見学させることを提案するが、その狙いもいまいち謎だ。あそこであんなトラブルが発生し、ああした事態を招くことが狙いだった、とは考えにくい。彼女には何らかの思惑があったはずだが、それもまた不明瞭なままである。いちおう本篇は子供が愉しめるファンタジーらしく大団円を迎えるが、冷静に考えるとなぜこうなったのかはまったく解らない。
恐らく本篇は、傘で飛んでやって来る家庭教師という発想、彼女が繰り広げる現実を飛び越えた言動の数々に、バートを絡めたミュージカルなど、観客を喜ばせるために考えたモチーフを優先しすぎているのだろう。その整合性を固め、物語としての筋を通す、という考え方が乏しいために、そういう観点から鑑賞すると破綻ばかりが目につく。しかも、アニメーションと実写の融合のみならず、随所にちりばめられた特撮も、当時としては先進的だったかも知れないが、今となっては古び、現代の目で眺めると陳腐で魅力に欠いてしまう。発表当時、或いは撮影技術の発展が不充分だった時分に本篇に接した経験があれば、懐かしさも手伝って愉しめるはずだが、そういう体験や思い入れがない私のような人間には、惹かれるところが乏しい。自然と退屈してしまうわけだ。
アカデミー賞を獲得した楽曲は間違いなく秀逸だし、これほど言動に芯の通っていないキャラクターにも拘わらず魅力を引き出してしまったジュリー・アンドリュースの素晴らしさは否定しない。歴史的に見ても、こういう趣向が批評的にも興行的にも好感を持って受け入れられるところまで牽引した功績は間違いなくあるだろう。ただ、そういう面を外して考察すると、いまひとつ認められない――上に連ねたような欠点は、当時であっても回避することは不可能ではなかったはずだから。
確かにこういう世界には惹かれるし、メリー・ポピンズのような家庭教師がいる幼年時代、というものには憧れを感じる。でも、それを扱った作品として、本篇が充分に洗練されていた、とは私には思えなかった。
関連作品:
『風と共に去りぬ』
『情婦』
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