原題:“Anna Karenina” / 原作:レフ・トルストイ / 監督:ジョー・ライト / 脚本:トム・ストッパード / 製作:ティム・ビーヴァン、エリック・フェルナー、ポール・ウェブスター / 製作総指揮:ライザ・チェイシン / 撮影監督:シーマス・マッガーヴェイ,ASC,BSC / プロダクション・デザイナー:サラ・グリーンウッド / 編集:メラニー・アン・オリヴァー / 衣装:ジャクリーン・デュラン / ヘアメイク:イヴァナ・プリモラック / 振付:シディ・ラルビ・シェルカウイ / 音楽:ダリオ・マリアネッリ / 出演:キーラ・ナイトレイ、ジュード・ロウ、アーロン・テイラー=ジョンソン、ケリー・マクドナルド、マシュー・マクファディン、ドーナル・グリーソン、ルース・ウィルソン、アリシア・ヴィキャンデル、オリヴィア・ウィリアムズ、エミリー・ワトソン、カーラ・デルヴィーニュ、スザンヌ・ロタール、アレクサンドラ・ローチ、タニシュタ・チャテルジー、デヴィッド・ウィルモット、ルーク・ニューベリー、バフィ・デイヴィス、エロス・ヴラホス、ホリデイ・グレインジャー、アントニー・バーン、ミシェル・ドッカリー、ケネス・コラード、ヘラ・ヒルマー、ジェームズ・ノースコート / ワーキング・タイトル製作 / 配給:GAGA
2012年イギリス作品 / 上映時間:2時間10分 / 日本語字幕:太田直子
第85回アカデミー賞衣裳部門受賞(撮影・美術・音楽部門候補)作品
2013年3月29日日本公開
公式サイト : http://anna.gaga.ne.jp/
TOHOシネマズ六本木ヒルズにて初見(2013/03/29)
[粗筋]
19世紀、帝政ロシア。
大臣を務めるアレクセイ・カレーニン(ジュード・ロウ)の妻アンナ・カレーニナ(キーラ・ナイトレイ)は、兄オブロンスキー(マシュー・マクファディン)の浮気が原因で危機を迎えた夫婦関係を修復させるべく、汽車でモスクワへと赴いた。その車中アンナは、かつての醜聞で未だにその名を知られるヴロンスキー伯爵夫人(オリヴィア・ウィリアムズ)と知己を得、彼女を出迎えた息子アレクセイ・ヴロンスキー(アーロン・テイラー=ジョンソン)と出逢う。
アンナはどうにか兄の妻ドリー(ケリー・マクドナルド)を取りなしたあと、ドリーの妹キティ(アリシア・ヴィキャンデル)から舞踏会に誘われた。舞踏会には、キティの憧れの相手であるヴロンスキーも訪れている。キティはこの場で彼から求婚される、と信じきっており、旧知の異性で、洋行帰りのコンスタンチン・リョーヴィン(ドーナル・グリーソン)からの求婚をあっさり断っていた。
だが、舞踏会でのヴロンスキーは、まるで義務的にキティを扱ったあと、アンナに対してダンスを申し込んできた。アンナはキティのため、という名目で受け入れるが、しかし気づけばヴロンスキーとの熱い時間に身を委ねてしまう。
自らが不埒な行動に及んでしまう危険を感じたアンナはすぐさま帰途に就いたが、ヴロンスキーはそのあとを追ってきた。軍人であるヴロンスキーはカレーニン家のあるペテルブルグ近くにあえて着任し、アンナが赴く公の席にたびたび顔を見せる。いつしかヴロンスキーはアンナの“影”と呼ばれ、その芳しくない風評は社交界に轟いていった。
仕事一筋で堅物のカレーニンの耳にも、当然のようにその声は届いてしまう。アンナの貞淑さを信じていたカレーニンは、妻に身を慎むよう忠告するに留める。だがアンナは、母の斡旋で地方に赴任する、それでも構わないのか、と問いかけるヴロンスキーに、「行かないで」と口走ってしまった。
しきたりに従い、成り行きにより夫と契りを結んだアンナにとって、それは初めて知る、燃えさかるような恋心であった。傲慢で向こう見ずなヴロンスキーの求愛に、アンナは破滅を覚悟で応える……
[感想]
もとが世界各国で長年愛読されている傑作文学である。絢爛たる舞台、奥行きのある登場人物、それぞれの思惑が複雑に絡みあい、予測を超えて繰り広げられる物語、いずれも間違いなく一級品だ。脚本を手懸けているのが“伝説”とさえ言われている人物であり、その整理も文句のつけようがない――打ち明けると、私は本篇の原作は読んだことがないのだが、長大な作品を2時間程度に収め、舌足らずな印象を与えていないのだから、恐らく原作に知識があるひとでも納得するレベルだろう。
しかし、本篇は決して単純な物語の再現、脚本の映像化に留まっていない。始まって数分で、観客は本篇がとんでもない実験的な趣向で作られていることに気づくはずだ。
この映画は、さながら舞台での演劇を撮影しているかのような趣で始まる。幕の下りた舞台を捉えた映像の背後で、オーケストラが音合わせをしているらしい不揃いな音色が響く。やがて幕が上がると、そこにタイトルが示され、ついで物語の年代を観客に教えると、舞台のうえで物語が展開する。
そのつもりでいると、しかしカメラは、どう考えても書き割りの奥――普通の演劇だと想定すれば、観客には観ることが出来ない領域にまで踏み込んでいく。建物のなかで繰り広げられるやり取りを切り取ると、別の場所で進んでいたはずの出来事が、にわかに舞台のうえで交流する。スクリーンのなかで脇役たちが大道具を動かして新しい背景を築いたかと思うと、主要登場人物が歩くのに合わせてまた舞台装置が切り替えられ、別の場所へと移動する。よく見ていると、さっき役人を演じていたはずの人物が、今度はレストランでウェイターをやっていたりするなど、細かな趣向が凝らされている。このめくるめくような序盤の描写で、早々と作品世界に呑みこまれてしまうひともあるだろう――かくいう私自身、この数分間のシークエンスだけで虜にされてしまった気分だった。
序盤でだいたい趣向を呑みこんだつもりでいると、しかし間もなく再び不意をつかれる。いきなり、どう考えても屋外としか思えない景色が広がるのだ。企みに満ちた舞台の変遷に慣らされたあとだと、少々守りに入ったような印象を受けてしまうのも否めず、統一しきれなかったことに否定的見解を抱くひとも多いだろう。
だがしかし、この奔放とも取れる舞台の転換こそ、本篇の優れた着想のひとつなのだ。単純に劇場で上演される芝居を撮影しているだけなら決してあり得ないこの転換は、演劇ではなく映画としてこの表現を成立させると共に、アンナたちが生きる世界の様式的な窮屈さをいささか大胆なくらいに象徴している。
ここで、リョーヴィンという、もうひとりの人物の結婚に至る変遷を、うまく対比させている。キティに袖にされたリョーヴィンは間もなく郊外の領地に移り、農作業に従事するようになる。注目していただきたいのは、彼のパートの描写は基本的に舞台の外にあることだ。ときおり飛び出していくアンナに対し、ふと舞台上に戻っては社交界の息苦しさを味わって去っていくリョーヴィン、と両者を並べてみると、本篇の一風変わった趣向の意図は、あからさまなくらいに明瞭なのだ。
そのうえで更に本篇は、この趣向だからこそ、の鮮烈な表現を組み込んでくる。序盤、舞踏会でアンナがヴロンスキーと踊るくだり、他のひとびとはまるで一時停止ボタンを押されたかのように静止し、ふたりが通り過ぎると、生気を取り戻りたかのごとく動きだす。そしていつしか、ホールにはふたりだけが残り、ただ夢中で踊り続ける。これも非常に明瞭だが、大胆でインパクトのある描き方である。この描写を前に、アンナが恋に落ちたことを疑うひとはいないだろう。
終盤にさしかかったところでも、似たような方法論に基づく鮮烈な描写がある。その衝撃を実感していただくために敢えて詳述はしないが、これも社交界を劇場という閉じた空間で描いているからこそ可能であり、膨らみを持つ発想だ。この場面でアンナが味わう感情を、観客が追体験できるほどに、見事な効果を上げている。
内と外とを対比させる趣向として捉えると、むしろ恐ろしいまでに徹底されていることに、あとあと気づくはずだ。終盤、リョーヴィンの場面はどのように描かれていたか、そして見た目はシュールなラストシーン、中心にいるのがどういう人物なのか。そういう点に注目すると、実に意味深長なのだ。
ドラマそのものが完璧なのだから、変に奇を衒った表現などせずに、まっこうから描けばいい、というのも真理だろうし、その主張からすれば本篇は評価に値しない。しかし、同じように描くのではなく、極端なまでに独自の表現、それも映画だからこその手法を突き詰め、徹底した本篇の冒険心は素晴らしい。しかも、物語の主題とがっちり噛み合い、ゆるがせに出来ないレベルにまで昇華されているのだから。
思えば本篇を手懸けたジョー・ライト監督は、名篇『つぐない』において、映像化不可能、と言われた原作の趣向を巧みに再現するばかりでなく、映像だからこその趣向で更に哀切に美しく彩る、ということをやってのけた人物である。あちらは、それ以前に映像化が試みられなかったものを、優れた発想で実現したものだが、発想力という作家性を、世界的に愛され幾度となく他の媒体に移植された作品に用いるなら、このくらいに尖った趣向になるのは当然だろう。必ずしも、誰もが欲するような表現ではないのは確かだが、しかし稀代の名作に全力で挑み、極めて高い完成度で応えた、意欲的な1本であるのもまた確かだ。
ストレートな表現では飽き足らないようなひとは、震えるような感激を味わえるに違いない。しかし、表現の独創性に拘らないひとでも、恐らくこの端整な美術と哀切なムードを讃えた音楽に彩られ、それを唯一無二の表現で絢爛に飾った本篇にきっと魅せられるはずだ。
関連作品:
『つぐない』
『路上のソリスト』
『ハンナ』
『戦火の馬』
『ドクトル・ジバゴ』
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