原作:東野圭吾(文藝春秋・刊) / 監督:西谷弘 / 脚本:福田靖 / 製作:亀山千広 / 企画:大多亮 / 撮影監督:山本英夫(J.S.C.) / 照明:小野晃 / 美術:部谷京子 / 編集:山本正明 / 音楽:福山雅治、菅野祐悟 / 主題歌:KOH+『最愛』(NAYUTAWAVE RECORDS) / 出演:福山雅治、柴咲コウ、北村一輝、松雪泰子、堤真一、ダンカン、長塚圭史、金澤美穂、益岡徹、林泰文、渡辺いっけい、品川祐、真矢みき / 配給:東宝
2008年日本作品 / 上映時間:2時間8分
2008年10月04日日本公開
公式サイト : http://yougisha-x.com/
TOHOシネマズ西新井にて初見(2008/10/04)
[粗筋]
長年の水商売で稼いだ金でようやく念願の弁当屋を出した花岡靖子(松雪泰子)のもとに、とうとうあの男が現れた。かつて2年だけ結婚していた相手、富樫慎二(長塚圭史)である――まともに仕事をせず、靖子に金をたかるばかりだった彼からようやく逃れ、ひとり娘の美里(金澤美穂)との穏やかな生活を手にした、と思った矢先に。諍いの挙句、母子は富樫を殺害してしまった。途方に暮れる二人の部屋の扉を、隣人の石神哲哉(堤真一)が叩いた……
12月3日、河川敷にある運動場の片隅で、顔を潰され指紋を焼かれた屍体が発見される。捜査は難航が予想されたが、現場近くに盗難自転車が、そしてドラム缶の中で焼き残っていた衣類から間もなく身許は富樫慎二と特定される。死亡推定時刻は前日の午後6時から10時のあいだと見られた。
当然のように、捜査の手は元妻である靖子に届く。結婚時は暴力に悩まされ、離婚後もたびたびつきまとわれ逃げるように暮らしていた靖子には、動機が充分に存在するからだ。靖子のもとを訪ねたのは、東京警視庁捜査一課の草薙(北村一輝)と、所轄貝塚北署所属の刑事でかつて草薙の後輩だった内海薫(柴咲コウ)のふたりであった。死亡推定時刻前後には映画を観、ラーメンを食べたあとカラオケへ……と当日の行動を靖子から聞いたのち、平日にしては行動が不自然だ、と草薙は指摘し、偶然戻ってきた隣人の石神にも話を聞くが、これといった証言は得られなかった。そのときふたりは、石神がポストから抜いた郵便物の中に“帝都大学”の文字があるのを目にする。
その帝都大学物理学教室で准教授として勤める湯川学(福山雅治)は、かつては草薙から、最近は内海から不可解な事件の謎を持ち込まれては、嫌々捜査に協力させられている人物である。草薙は久々に、内海はまたしても、という格好で湯川のもとを訪ね事情を語るが、アリバイの問題は物理とは関係ない、と湯川はあまり関心を示さない。だが、映画を観ていた証拠である半券がパンフレットに挟まれていた事実を知ると、「もしその人物が犯人なら、強敵だ」と呟く。アリバイを証明するものを、引き出しに大事に仕舞うのではなく、自然と見つかるような場所に隠す相手が、そう簡単にボロを出すはずがない。
湯川がむしろ関心を惹かれたのは、草薙が帰り際に漏らした、靖子の隣人の件であった。どういう人物かと問われて湯川は、本物の天才と呼べるのは彼だけだ、と返す。そして翌る日、湯川は石神のもとを訪ね、二人は17年振りの再会を果たした……
[感想]
2007年10月から12月にかけてFNS系列で放映され好視聴率を獲得したテレビドラマ『ガリレオ』の劇場版であり、このシリーズ初の長篇にして直木賞にも輝く同題作品の映画化でもある。
原作では湯川の相棒をすべて草薙刑事が務めているが、ドラマ版は僅かなりともロマンスの香りを付け加えるためか、内海という女性刑事がこれに変わるかたちとなっている。この点を筆頭に、ドラマ版は短篇シリーズである原作のトリックだけを抜き出して背景や動機をすべて入れ替えることまでやっており、原作ファンからは必ずしも好評を得ていない。私自身はこの映画版を観る前にやっと原作を読めたのだが、しかしそれでもドラマ版の脚色は間違いでなかったと判断している。小説とドラマでは見せ方が異なるし、シリーズとして筋を通したり、印象を軽めにアレンジするやり方もありだろう、と捉えたからである。
だが、このドラマシリーズの続篇として位置づけられる本篇は、驚くほど原作に忠実に作られている。ドラマ版では捜査一課に出世したことでほとんど登場しなくなった草薙が大幅に露出しているものの相変わらず相棒役は内海が務めているし、石神の外見を筆頭に細かく脚色が施されているが、事件の展開、その根幹に横たわる思想と仕掛けは完璧に再現している。驚くべきは、小説を映像化するとき通常なら絵として相応しい場所を優先して撮影されるのに、靖子たちの暮らすアパートの位置や石神の行動する場所はほとんど、書かれている通りの土地で撮影されているのだ。恐ろしく徹底している。
しかしそのために、恐らくドラマ『ガリレオ』の続きとして本篇を鑑賞しようと劇場に足を運んだ人は、そのイメージの違いにだんだん戸惑うに違いない。地続きであることの証明として、プロローグ部分では本筋とは繋がらない事件のトリックを解明するさまを、まさにドラマシリーズと同じノリで描いていくが、その後、花岡母子が犯行に及び、屍体発見から警察が捜査に入っていく過程を経るごとに戸惑いを増していくはずだ。ドラマ・シリーズのような超現実的と感じられる謎が提示されることはなく、湯川の立ち位置も微妙に異なっている。
派手な謎や外連味に富んだ展開もその後ほとんどなく、一種淡々と物語は進んでいく。この地味な筆運びは、テレビドラマと同じ感覚で観ると違和感のほうが強いだろう。その間に描かれる靖子の意識の変遷や、湯川のどこか苦悩に喘いでいるような姿は、謎解きと言うより心理サスペンスの趣さえある。
だが、そうして地道に織りこんでいった伏線が急速に様々な顔を見せていくクライマックスは、本篇がやはり本質的に謎解きの物語であることを実感させる。そして明かされる真相は、原作を知らず、ドラマと同じ感覚で構えていた人を打ちのめすだろう。伏線が宿していたのは謎解きのための鍵だけでなく、この瞬間に訪れる圧倒的な心の震えに至る道程でもあるのだから。
ドラマで打ち出していた、ミステリならではの腑に落ちる感覚、明快なカタルシスを求めている人には、この結末が受け入れがたいという場合もあるだろう。だが、その感情を描くことこそが本篇の最大の狙いであり、問題は受け入れられるか否かではない。恐るべきは、そして心を震わせるのは、これを実行してしまった石神という男の覚悟であり、その顛末そのものなのだ。
原作で既に完璧なかたちで提示していたこの主題を、本篇のスタッフは壊すことなく、そして決して省略を強く意識させずに見事に映画として成立させている。クライマックスでは原作のある展開が省かれ、湯川と石神との位置関係にも違いが見られるが、しかしそれでも結末の衝撃は微塵も薄れていない。むしろ、ドラマ版の設定を織りこむことで、湯川と石神だけでなく、湯川と草薙についても触れるかたちでやや混乱していた“友情”というもうひとつのテーマを前者だけに絞り込み、より鮮烈にする効果も上げている点に触れておきたい。内海もまた距離感として湯川と親密な関係にあるが、石神とは性質が異なるために、そちらの奥行きを阻害していないのだ。
原作では3月だった物語の時期を12月に変更したことで、映像的にも描写的にも静謐感を齎し、いっそう物語の哀切さを強調している。原作通りである部分もさることながら、脚色した部分が本質を完璧に捉えているのだ。
それ自体が高く評価されていた原作をここまで完璧に映像化しているのだから、映画としてもその出来の良さは推して知るべし、だろう。石神の行為に理解を示すか否か、どう受け入れるかで印象は変わるだろうが、そこから先は信念や相性の問題でしかない。描こうとしたテーマを遺憾なく描ききった、高精度のミステリ映画であることは疑いない。
……ただ一点、原作を読んでいると、どうしても気になってしまうことがある。
原作における石神の外見描写をほぼ無視して堤真一を起用したこと、それ自体は間違いではない。役のクラスからして知名度やスター性は求められるし、後半で繰り返し印象の変化する難しい役柄を演じきれる俳優となれば、そうそう見つかるものではなく、むしろ最高の配役だったと思う。
ただ、途中から登場し、物語の展開にとって深い意味を持つ工藤という人物を、ダンカンに演じさせたのはちょっと間違いだったと思う。別にダンカンが相応しくないというわけでも、役者として物足りない、というわけでもない。
問題は、原作における石神の風貌が、明らかに堤真一よりもダンカンのほうに近いことだ。
なまじ原作を直前に読み終えていただけに、この点はどうしても引っ掛かって仕方なかった――配役、逆にしたほうが良かったように思えてしまうのである。雰囲気はいいのだが、もう少し外見の違う人物を起用した方が良かったのではなかろうか。
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