原作:浦沢直樹(小学館・刊) / 監督:堤幸彦 / 脚本:長崎尚志、浦沢直樹 / 脚本協力:渡辺健介 / 企画:長崎尚志 / 製作指揮:宮崎洋 / エグゼクティヴ・プロデューサー:奥田誠治 / 撮影監督:唐沢悟 / 美術:相馬直樹 / 編集:伊藤伸行 / 衣装:川崎健二 / 音楽:白井良明、長谷部徹、AudioHighs、浦沢直樹 / 主題歌:T-Rex『20th Century Boy』(Imperial Records) / 出演:唐沢寿明、豊川悦司、常盤貴子、平愛梨、香川照之、藤木直人、石塚英彦、宮迫博之、佐々木蔵之介、山寺宏一、高橋幸宏、佐野史郎、森山未來、古田新太、小池栄子、木南晴夏、福田麻由子、ARATA、片瀬那奈、六平直政、研ナオコ、北村総一朗、手塚とおる、田鍋謙一郎、サーマート・セーンサンギアム、チェン・チャオロン、竹内都子、石塚保、津田寛治、光石研、遠藤賢司、高嶋政伸、田村淳(ロンドンブーツ1号2号)、岡田義徳、武蔵、武内亨、ダイアモンド☆ユカイ、MCU、吉田照美、原口あきまさ、斎藤工、左右田一平、石橋蓮司、中村嘉津雄、黒木瞳 / 制作プロダクション:シネバザール、オフィスクレッシェンド / 配給:東宝
2009年日本作品 / 上映時間:2時間35分
2009年8月29日日本公開
公式サイト : http://www.20thboys.com/
TOHOシネマズ西新井にて初見(2009/08/29)
[粗筋]
“ともだち”の死と再生から、更に2年の時が過ぎた。あの出来事によって神にも等しい存在感を世界に示した“ともだち”は世界大統領に任ぜられ、人類を支配する。
東京を逐われていたオッチョ(豊川悦司)は、多くの都市に蔓延したウイルスの脅威から人々を守る、という名目で大都市の周辺に築かれた壁の数々を乗り越え、どうにか東京に潜入することに成功する。目に飛び込んできたのは、オッチョが少年時代を過ごした頃とほとんど変わらない街並であった――“ともだち”は、昭和40年代の日本の風景を再現していたのである。地球防衛軍に追われているさなかに出逢ったサナエ(福田麻由子)という少女に匿われたオッチョは、かつての仲間たちの動向の一端を窺い知ることとなる……
現在、ケンヂ(唐沢寿明)たちの意志を継いで“ともだち”の対抗勢力として活動している者たちを指揮しているのはヨシツネ(香川照之)であるという。“ゲンジ一派”と呼ばれる彼らは、“ともだち”に反感を抱く者たちの憧れであり希望であり続けているが、いまその中に、オッチョたちの“最後の希望”であったカンナ(平愛梨)はいなかった。
カンナは地下に潜伏し、“氷の女王”と呼ばれる存在になっていた。武闘派の若者を従え、“ともだち”が宇宙人の襲来を預言する8月20日に一斉蜂起することを、電波を通じて民衆に呼びかけている。
ケンヂの影響を誰よりも強く受けているはずの彼女が、血を流すことを厭わないテロリストになっていることが、オッチョにはどうしても信じられない。神様(中村嘉津雄)たちは、カンナを説得するべくヨシツネがユキジ(常盤貴子)を仲介して接触を試みている、と言うが、しかしオッチョはそれこそ止めなくては、と焦った。オッチョは2年前のあの事件以来、ある疑いを抱いていたのである。
ある成算があったオッチョは、ヨシツネに先んじてカンナとのコンタクトに成功する。自らを頼ってきた人々のために死を覚悟して戦う彼女に、オッチョはある可能性を示した。
ケンヂは、生きている。生きて今も歌を歌いながら、この東京を目指している――
[感想]
大変に幸せな作品であると思う。原作者自らが脚本を手懸け、音楽製作にも協力し、はじめから全3部作という約束のもと、ヴォリュームのある原作の内容が可能な限り詰め込める尺を用意された。メインキャストはいずれも主役級のスターや名優で埋められ、脇役にも名前の浸透したタレントを多く起用している。豪華な布陣だがいずれも原作のイメージを損なっていなかったようで、原作ファンからも好意的に迎えられ、結果第1作・第2作ともに好成績を収めた。そうして待ち望まれたうえで登場した完結篇である。
既に第1作、第2作と築かれたものがあり、それを締め括った、というだけでも充分に満足感を齎すものだが、本篇は「“ともだち”は何者なのか」という最大の謎を限界まで引っ張り、最高のカタルシスを生み出すことに成功している。これまでの作品を存分に楽しみ、期待を寄せていた人ならば、観ておいて損することはない。
ただ、本当にすべてが綺麗に回収されたのか、全体が隙なく構成されていたか、と問われると、率直に言って首を傾げる。前作までを繰り返し鑑賞し、描写の意味や伏線の辿り着く先をああでもない、こうでもないと考察していたような人ほど、納得のしない気分を味わうはずである。
要は、話の組み立て方が連載漫画の方法論に従っているからなのだろう。毎週や毎月に1回のペースでエピソードを発表していく連載漫画では、ストーリー全体の構成以上に、1回ごとに盛り上がりを設け、次回まで読者を引っ張ることがまず求められる。その積み重ねによる牽引力を生み出せるかどうかが人気の分かれ目になるため、連載を多く持っている作家はだいたいこの技術に優れている、と言ってもいい。
ただこの手法には、計画して伏線を鏤めているのではなかった場合、あとあと回収できずに取り残される描写、斬り捨てられてしまう描写も多くなり、読者が答を求めていた部分が空白のまま取り残され、消化不良の印象を残すこともままある。本篇はまさに、そういう空白を多く残した終わり方となっているのだ。
何処に触れてもネタばらしとなりかねないので、ひとつだけ例を挙げると、題名にも掲げられた“旗”の問題である。作中である人物が語る通り、“ともだち”が象徴として用いているマークとその旗は、本来はケンヂたちが原っぱの秘密基地で使っていたものだ。だからそれを取り戻す、というのは如何にもドラマチックなのだが、どういうわけか題名にも用いたこのポイントについて、中心の登場人物たちはほとんど触れない。この点に言及した登場人物でさえ、最後には忘れてしまったかのようだ。
それもこれも、クライマックスにおけるライヴが長引いたことと、物語の関心が“ともだち”の正体、その誕生の背景を探ることに置かれたのが原因だろうが、他にも第1章、第2章で思わせぶりに描かれながらこれといって説明されないままやり過ごされてしまった部分が非常に多い。物語の勢いを意識したあまりに、細かいところまで注意してきた観客をないがしろにしたような、そんな印象を残してしまう。
その原因のひとつに、登場人物の行動が全般に行き当たりばったり、いまいち計画性もなければ計算も感じられないことが挙げられるが、しかしこの点については、3部作を通して観てきた目からすると、今更あげつらうほうが間違いだろう。この傾向は第2章で非常に色濃く表れており、もしそこを否定するのなら観ないほうがいいし、そもそも前章でそういう風に描かれていた人物たちが最終章で突然計画的に、策略的に描かれていたら、そのほうがずっと不自然だ。
本篇は題名がT-Rexの名曲から引用されており、主人公であるケンヂはいちどメジャーデビューを果たしたミュージシャンとして描かれ、物語の鍵として使われている歌のタイトルは『Bob Lennon』、という具合に、随所に音楽、特にロックンロールへの憧憬が織りこまれている。物語に行き当たりばったりの疾走感がつきまとうのはその意識ゆえであり、だからこそ登場人物の感情は熱く、展開に奇妙な意外性が備わり、荒々しいカタルシスが生まれている。人物の言動が衝動的なのも、そう考えると必然的だ。
伏線がうまく解消されていない嫌味がありながら、それでも牽引力を損なっていないのは、人物造型の巧みさと、それぞれのドラマにある程度の決着を用意しているが故だろう。通常の映画なら2時間程度で築きあげねばならないところを、既に2時間×2回費やして積み上げたものがあるから、クライマックスはやはり圧巻だ。生き残り、ある程度の役割を果たした者にはひととおり見せ場が設けられているので、終盤の充実感は著しい。
3部作の大作であるからこそだろう、VFXのクオリティも非常に高い。昭和40年代の風景を再現した東京の全体像に、街を包囲する巨大な壁、そして何よりクライマックスにて登場するロボットの質感が素晴らしい。ビルの屋上にいるオッチョの横を巨大ロボットが通り過ぎていく様は、本当にあのサイズの化物が歩いているような錯覚さえ覚える。
現代の日本で考えられる、可能な限り贅沢なキャストを起用し、映像技術の面でも高い要求をしてきちんとクリアしている。3部作という形で観客を煽った分だけ愉しませよう、満足して貰おう、という意識が充分にあり、その目標をかなりの水準で達成していることは間違いない。第2章までにかなりの不満を覚えているとか、提示された謎や疑問点を余すところなく解消する、或いはその手懸かりを齎してくれることを期待しているような人は無理に観る必要はないと思うが、もし前章までを充分に愉しんだのなら、観ておいて損はない。他の映画では味わえない充実感を堪能できるはずだ。
この3部作はたぶん、作品である以上に、大きなお祭りと呼ぶべきものなのだと思う。だから、第2章までで充分に昂揚した、という人は、やはり最後まで参加すべきだろう――いい想い出になるにせよ悪い記憶になるにせよ、こんなに厚みのある余韻を齎す“お祭り”は、そうそう催されるものではないから。
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