鮎川哲也『竜王氏の不吉な旅 三番館全集第1巻』

鮎川哲也『竜王氏の不吉な旅 三番館全集第1巻』(Amazon.co.jp商品ページにリンク) 『竜王氏の不吉な旅 三番館全集第1巻』
鮎川哲也
判型:文庫判
レーベル:光文社文庫
版元:光文社
発行:2022年12月20日
isbn:9784334794576
本体価格:1100円
商品ページ:[amazon楽天]
2023年8月18日読了

 戦後の本格推理の巨匠である著者が晩年にもっとも多く発表した、銀座の会員制バーのマスターが探偵役となる中短編《三番館シリーズ》を、発表順に並べた全集の第1巻。出版芸術社から四六判ハード3分冊で同様の方針によってまとめられたことがあるが、文庫のかたちでは恐らくこれが初となる。

『春の驟雨』
 俄雨から逃れて飛び込んだデパートで女性の衣服を切り刻んだ疑いをかけられた編集者の須藤正樹。その直後に切り裂きに遭った女性が殺害され、須藤はその容疑者にもされてしまう。須藤を担当する弁護士から、須藤のアリバイを証明するよう依頼された探偵だが――
 記念すべきシリーズ第1作。三番館のマスターのスタイルはさながら安楽椅子探偵だが、事件のきっかけ、探偵による捜査が丹念に描かれるので、構成的には著者を代表する《鬼貫警部》の長篇作品のアリバイ崩しものに近い。ただ、基本は三人称で綴られる鬼貫ものに対し、本篇は事件発生ののちは探偵の一人称で綴られ、いわゆるハードボイルドものに近い雰囲気になる。とはいえ、暴力沙汰に陥ることがなく、また意識的に道化のような振る舞いをする探偵のスタンスのお陰で、語り口はユーモラスだ。
 しかし一転二転する状況、マスターによる鮮やかな推理と、企みに満ちた仕掛けは歴然たる本格推理の趣。雑誌から依頼される尺では充分な謎解きが書けないと判断し、犯人目線で犯行の頓挫を描くいわゆる“倒叙もの”を中心に執筆していた著者が、これ以降三番館のメンバーを多用することになったのも、長篇に近い構成と軽妙なタッチの共存できるこのフォーマットがいたくお気に召したからかも。
『新ファントム・レディ』
 妻公認で女遊びに興じていた会社員・増田謙介を、そうとは知らない興信所員の男が不貞を材料に脅迫してきた。意に介さなかった増田だが、間もなく興信所員が殺されたことでにわかに疑いをかけられる。探偵は弁護士に頼まれ、増田が犯行当時に一夜のアヴァンチュールに耽っていた相手を探すが――
 ウィリアム・アイリッシュの名作『幻の女』のひそみに倣ったシチュエーション、ただしもちろん仕掛けはまるで違う。もはや本当に幻ではなかったか、という奇妙な状況の答を出すのに、三番館のマスターが意表を突いた趣向を用いる点がユニーク。
 ちょっとした手違いであっという間に破綻してしまうリスクの多すぎるトリックになってしまったことがちょっと引っかかるが、ほぼ中篇と言ってもいい尺をたっぷりと使った紆余曲折に富んだプロットは読み応えがある。
『竜王氏の不吉な旅』
 スーパーの食肉売り場主任・山辺退介の遺体が職場の冷凍庫で発見された。かつて山辺によって万引の疑いをかけられ脅迫された女性の夫に頼まれ、真犯人捜しに乗り出した探偵は、作詞家の竜王得三郎という容疑者に辿り着くが、この男は事件当時、不吉な地名を巡る旅に出ていたという――
 長篇化の構想があったため、当初の作品集では収録が控えられていた作品。解説によれば、更なる不吉な地名を抽出して取材も行われていたが、ダイヤ変更によりトリックが成立しなくなり頓挫した、という背景がある模様。もしかしたら三番館シリーズ初の長篇になっていたのでは――とあるが、個人的には、ほぼ鬼貫ものの体裁なので、探偵側がガラッと入れ替わっていた可能性もあると思う。
 そのくらい凝った作りなので、『新ファントム・レディ』より短めながら読み応えは充分。容疑者の奇妙な旅に潜んだ穴を探る過程もさることながら、本篇の白眉はクライマックス。長篇で似たようなことをやると、痛快だけど急に放り出された感じになりそうだが、本篇くらいの尺だと印象はより鮮烈。長篇化されたヴァージョンも読みたかったが、このままでも充分にいい。
『白い手黒い手』
 楽器店営業部の一寸木秀夫は電話でグランドピアノ購入の商談を持ちかけられ、千葉県幕張へと赴く。しかし取引相手の家は見つからず、同日に付近で起きた殺人事件の容疑者にされてしまう。あまりにも不利な状況の一寸木の無辜を証明すべく、探偵は犯人を捜す。
『新ファントム・レディ』に続いて長く、紆余曲折の豊かな作品でこちらも読み応えはある……のだけど、個人的にマスターがある事実に気づくに至る手懸かりについて、「果たしてそうなるのか?」という疑問が湧いてしまって、ちょっと凝りが残ってしまった。とはいえ、露骨に依頼人を疑う警察、あまりにも依頼人に不利すぎる状況、これと見込んだ容疑者も見込み違い、と実に展開が豊かで、シリーズの面白さがほぼ確立した感がある。
『太鼓叩きはなぜ笑う』
 流行作家の浪岡悠一が密かに製菓会社の次期社長夫人と不倫関係にあることを嗅ぎつけた私立探偵に脅迫された。彼女のために定期的に金を支払い口を封じていたが、私立探偵は何者かによって殺害され、浪岡が容疑者となる。弁護士は同様に脅されていた別の人物の犯行と考え、探偵に調査を求める。
 さながら月謝を払わせるように、被害者が自分の許に赴いて金を支払うよう予定を組む、という犯罪者としてふてぶてしすぎる振る舞いのお陰で、他の容疑者が同じ日に脅迫者のもとを訪れていたので、証言をまとめると殺害されたと思しい時間帯が明白になり、それで翌日に脅迫者を訪ね第一発見者ともなった依頼者が最重要容疑者になる……という、上げてみると出来すぎた話。しかしそれだけに、挑戦すべき謎が明確となり、なおかつ複雑さを増している。
 この作品はいつもと一風違った締め括り方をしていて、読者も一瞬それでいいかな、と受け入れてしまいそうになるが、冷静に考えると、実はマスターが考え探偵が受け入れたような決着にはなりにくい気がします。警察がマスターの(といいつつ大抵は探偵が自分でしたように見せかける)推理を受け入れたうえで、なおかつ2人の思惑通りの判断をしなければ、最善の結末にはならないような。あえて結末をぼかすのも趣向として嫌いではないのですが、このぼかし方はちょっと引っかかる。このドライな思考は好きなんだけど。
『中国屏風』
 経営する芸能プロダクションを失った櫟原は、窮するあまり、不貞の模様を記録したテープでプロデューサー・東山を脅迫する。東山には偽造であることは明白だったが、解決を弁護士に依頼し、探偵が対処に動く。しかし、直接訪問した櫟原宅で、射殺された櫟原を発見し、探偵が疑われる羽目に陥る。
 シリーズで初めて、依頼人ではなく探偵が容疑者になる、という異色の成り行き。けっきょくは依頼人が疑われる羽目になるが、過程が風変わり、かつ謎の変遷も独特なので、やっぱり読み応えはある。
 この作品の白眉はトリック、というより、幾つかのポイントに気づくと、まるで絵のように犯行時の構図が思い浮かぶ仕掛けの巧みさだと思う。そのちょっと手前までは五里霧中に近い状態に陥るのに、マスターがこの絡繰りを探偵に示した途端に鮮やかに解き明かされる快感は秀逸。
『サムソンの犯罪』
 器用だが売れない作家の一村一は、初めての連載企画に先駆け、売名のために自らがニセの一村となって、観光地にて宿泊費の支払をすっぽかし、偽者のために宿泊費を支払った作家、というかたちで話題になろうとする。しかし、連載期間の短縮を提言していた編集次長が殺害され、犯行当時に偽者として宿泊旅行していたためアリバイのない一村が疑われる。ツルハシで一撃、という怪力の犯人を探偵は暴くことが出来るか。
 本巻最後の1篇はこの時点でシリーズ最短、しかし容疑者は多く、尺が短いがゆえにギリギリまで探偵が振り回され真相が見えない。しかも読み手によっては序盤から引っかかるポイントが用意されているため、尚更に翻弄されてしまう。
 ちょっとした発想の逆転からまたたく間に犯人が導き出されるクライマックスは鮮やか……なのだが、発表から50年近く経た時代の者としての目線で判断すると、結論の出し方に思い込みが幾つもあって、もうちょっと検証は必要ではなかったか、と思ってしまう。もちろん、読者の死角を衝くこの仕掛けは、長年本格推理を執筆してきた著者らしい老練な手管で、それがひっくり返されてしまうだけでもインパクトは強いのだが。

 あちこち否定的なことも記したものの、全体としてはレベルの高い作品集であることは確か。著者の手癖をあちこちに感じさせつつも、それぞれに異なる導入、トリックを用いていて、手触りも異なる。このシリーズを手懸けるようになって以降、長篇の発表は数を減らしていくが、決して創作意欲は衰えていなかったことが窺える。
 この巻だけでベストを選ぶとしたら、題名のもととなる奇妙な旅行もさりながら、ラストの衝撃が著しい表題作か、まさに構図が逆転する快感の味わえる『中国屏風』か。

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