『ジャンヌ・ダルク裁判』

『ジャンヌ・ダルク裁判』予告篇映像より引用。
『ジャンヌ・ダルク裁判』予告篇映像より引用。

原題:“Procès de Jeanne d’Arc” / 監督&脚本:ロベール・ブレッソン / 製作:アニエス・ドゥアライ / 撮影監督:レオンス=アンリ・ピュレル / 美術監督:ピエール・シャルボニエ / 編集:ジェルミネ・アルトゥス / 衣装:ルチラ・ムッシニ / 音楽:フランシス・セイリグ / 出演:フロランス・ドゥレ、ジャン=クロード・フルノー、ロジェ・オノラ、マルク・ジャッキエ、ミシェル・エリュベル / 初公開時配給:ATG / 映像ソフト最新盤発売元:JVC
1962年日本作品 / 上映時間:1時間5分 / 日本語字幕:細川晋
1969年11月29日日本公開
2023年9月29日映像ソフト日本最新盤発売 [DVD VideoBlu-ray Disc]
DVD Videoにて初見(2025/12/3)


[粗筋]
 1430年3月、ジャンヌ・ダルク(フロランス・ドゥレ)はコンピエーニュでブルゴーニュ派に捕らえられ、英国軍に売られる格好で引き渡された。
 幾度か逃亡を試みた彼女に対し、イングランドはフランス人司祭ピエール・コーション(ジャン=クロード・フルノー)を裁判官とする異端審問にかけた。
 オルレアン包囲を打破し、百年戦争の情勢を大きく揺るがしたジャンヌに対し、イングランド民衆の憎悪は激しく、“魔女”として火刑に処すべし、という声が高い。
 一方のジャンヌは、一見毅然としているが、情緒は不安定であることを窺わせた。真実は一部しか語らない、協会ではなく神の言葉に従う、という態度を貫きながらも、決して死を望んでおらず、法廷から牢に戻されると涙を流す。
 本篇は、残された審判の記録をもとに描く、ジャンヌ処刑に至る経緯である――


[感想]
 裁判記録に基づいてジャンヌ・ダルクが処刑に至る過程を辿る、というアプローチは、1928年のフランス映画『裁かるるジャンヌ』で行われている。本篇の監督ロベール・ブレッソンは、この作品に否定的な見地から手懸けたというが、結果として、ほぼ同じようなアプローチになったらしい。私自身は『裁かるるジャンヌ』を鑑賞していないので、どこまで共通しているのか、監督がどのように差別化したのか、を語ることは残念ながら出来ない。
 しかし本篇の描き方は、少ないながらもロベール・ブレッソン作品を鑑賞してきた目には、実に監督らしい表現の仕方と映る作品だった。
 出演者は全員、本業の俳優ではない。極めて限られた舞台で、ストイックなカメラワークで撮影し、事実の積み重ねの奥に主題を浮かび上がらせていく。演じているのがプロではないため、演技面での見せ場は少ないが、素朴で飾りのない仕草に、リアリティが滲み出る。
 本篇の場合、撮影時から600年も遡った昔の出来事ゆえ、戦場は無論、法廷の外観でさえも、撮影にはよほど当時に近い建物を探すか、セットを用意するしかない。恐らく、そうした装飾を避けるため、という意図もあるのだろう、本篇は法廷と牢獄、そして両者の入口付近くらいしか舞台がなく、ロケにせよセットを組むにせよ難易度は高くない。制約された状況であるが故に、ごく一部のシーンを除いてカメラを動かすこともしていないが、だからこその異様な臨場感がある。
 ジャンヌの証言はジャンヌを、コーション司祭の発言するときは司祭を、それぞれ斜め前から、決まった角度で撮影し続ける本篇の表現は、どこか固定カメラで記録するドキュメンタリーのような趣がある。
 発言が神懸かっているとはいえ、あくまで国家間の戦いで、兵士を鼓舞し指揮したに過ぎない人物を、宗教的な“異端”として裁く。弁明の機会が与えられているようでいて、はじめから結論ありきであるため、ジャンヌが既に答えたことを繰り返させ、挙句に証言とは異なる記録を平然と書き換える――この改竄は、実際に残っている記録からも確認出来ることらしいが、ジャンヌの味わう恐怖、絶望は如何ほどか。そのうえ、牢には覗き穴があって、終始行動を監視され、更に精神的に追い込んで罪を認めさせようとするさまはあまりに非道だ。
 そもそもジャンヌに裁きを下した“異端審問”とは、現代の多くの国における裁判のように、法の下に運用されるものではなく、教会が被告を信徒か異教徒か、を判断し、処分を決定するものだ。ルールに従わない者を処罰する、という考え方は通じていても、神やその教えについての解釈が違うだけで、改宗や追放、更には極刑に処される。キリスト教、それも現地の教会に与しないなら、最悪命を奪う、という暴力的な代物である。ましてこの異端審問では、裁判官たる司祭が既にジャンヌを異端と決めつけ、大衆や現地教会の意向に添って、ジャンヌを火刑に処するために彼女を誘導しようとしていた。“審問”と言いながら、はなから断罪の道具として用いられている。宗教というものが掲げる神聖さではなく、俗悪さの方が本篇からは濃密に滲み出ている。
 だが、翻って本篇は、被告の罪を決めつけた状態での法廷の危険性、ひいては、人が人を裁くという危うさを抉っている、とも捉えられる。本篇における審問の、ジャンヌに対する予断は、宗教裁判特有の要素が多く含まれるが、結論ありきで物事を決めつけることは、近代でも多かった。現代においても、裁判でもそうした予断の元で審理が続く危険は常に孕んでいるし、裁判以前に、“被告”となった人物の社会的地位を剥奪してしまう“世論”はより危険性が高い。
 ジャンヌは最後には大衆、そして司祭の思惑通り火刑に処された。やはりシンプルなラストシーンの映像が残す余韻はあまりに空虚で、慄然とさせる。あれは人間の身勝手さと、傲慢さの象徴だ。 
 罪ありきで裁かれるおぞましさを描いた作品だが、その実、これは本篇の製作から60年、そして元となった裁判から数えると600年以上経たいまでも、本質的なメッセージの意義を損なっていないように思う。人が人を裁く、ということの難しさと危険性を、本篇、そして元となった審判は訴え続けている。残るべき――というよりも、いつまでも残ってしまいそうな傑作である。


関連作品:
田舎司祭の日記』/『バルタザールどこへ行く』/『少女ムシェット
羅生門』/『薔薇の名前』/『それでもボクはやってない』/『私は貝になりたい(2008)』/『最後の決闘裁判

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