『もののけ姫』

TOHOシネマズ上野、スクリーン3入口脇に掲示された『もののけ姫』キーヴィジュアル。
TOHOシネマズ上野、スクリーン3入口脇に掲示された『もののけ姫』キーヴィジュアル。

原作、監督&脚本:宮崎駿 / プロデューサー:鈴木敏夫 / 作画監督:安藤雅司、高坂希太郎、近藤喜文 / 美術:山本二三、田中直哉、武重洋二、黒田聡、男鹿和雄 / 特殊美術:福留嘉一 / 色彩設計:保田道世 / 撮影監督:奥井敦 / 編集:瀬山武司 / 音楽:久石譲 / 主題歌:米良美一『もののけ姫』 / 声の出演:松田洋治、石田ゆり子、田中裕子、小林薫、美輪明宏、森繁久彌、西村雅彦、上條恒彦、島本須美、渡辺哲、森光子、佐藤充、名古屋章、飯沼慧、香月弥生、冷泉公裕 / アニメーション制作:スタジオジブリ / 配給:東宝 / 映像ソフト発売元:Walt Disney Japan
1997年日本作品 / 上映時間:2時間13分
1997年7月12日日本公開
2013年12月4日映像ソフト日本最新盤発売 [DVD Video:amazon|Blu-ray Disc:amazon]
初見時期不明(劇場初公開時のはず)
TOHOシネマズ日劇にて再鑑賞(2018/2/4) ※“さよなら日劇ラストショウ”上映作品として
TOHOシネマズ上野にて再鑑賞(2020/7/14)


[粗筋]
 まだ世界が深い森の中にあったいにしえの頃。
 ヤマトに圧倒され東の果てに落ち延びた民が築いた集落を、タタリ神となった山の主が襲った。いずれ民を束ねる血筋の青年アシタカ(松田洋治)がとどめを刺し、里は難を免れるが、その代償としてアシタカは右腕に呪いを受けてしまう。古老のヒイ様(森光子)が山の主の身体に鉛の塊が残っていたことを告げると、アシタカは鈍いの源を辿り、自らの運命を見極めるべく里を発った。
 やがてアシタカは、いままさに戦が繰り広げられている地に辿り着く。成り行きで救った唐傘に高下駄の男・ジコ坊(小林薫)に例の鉛の塊を示すと、西方にあるたたら場で製鉄されたものだろう、と言った。翌朝、まだ眠るジコ棒を残し、アシタカは西を目指した。
 アシタカが目指した西方には、いにしえの神であるシシ神が君臨する深い森のそばに、山を削り、森を切り開き、たたら場を中心とした城が築かれていた。長であるエボシ御前(田中裕子)は各地で不遇を託つ女たちを救い、余所では“鉄が汚れる”としてたたら場に入れない女たちを労働力として活かし、しきたりに縛られない共同体にまとめていた。
 里で鋳造した鉄を売り、交換した食料を運んでいたエボシ御前の隊列が、山犬の一家の襲撃を受ける。石火矢で襲撃を退けたが、一部の荷と共に牛飼いが数名転落、再度の襲撃を警戒し、エボシ御前は彼らを残していくことを選んだ。
 折しも当地に逢着していたアシタカは、川岸に打ち上げられた牛飼いを発見、救助する。骨折だけで意識のある牛飼いの甲六(西村雅彦)に制止されながらもアシタカはあえてシシ神の支配する森を抜け、たたら場へと辿り着く。
 見慣れぬ装いのアシタカを、男たちは警戒したが、女たちは歓迎した。エボシ御前も快く受け入れ、アシタカはその晩、彼らの供応に預かった。
 酒宴の席で、男が口にした武勇伝で、アシタカの里を襲った山の神がこの付近で手傷を負った事実を知る。その事情を聞かされたエボシ御前は、アシタカをある部屋へと導くのだった――


[感想]
 この感想を書いているのは最初の公開から23年後である。『天空の城ラピュタ』以降すべてのジブリ長篇を映画館で観ているので、むろん本篇も初公開当時に劇場で鑑賞している。その後、テレビ放映や映像ソフト版はもちろん、映画館での再上映も二度足を運んでいて、トータルでなんかい観たのかもう解らない。
 ただ、なんど鑑賞しても、強く感じることはわりと変わらない。ひとつは、本質的には『風の谷のナウシカ』の変奏に過ぎない、ということと、民俗学をファンタジーに落とし込むその大胆さだ。
『風の谷のナウシカ』の変奏、という点は、双方の要素を比較してもらえばご理解いただけると思う。自然と文明の相克、両者のあわいに位置づける少女という中心軸に、決断力と統率力に優れた女性のリーダー、企みを孕みながら姑息に振る舞い自己の利益を確保しようとする参謀格、更には託宣をもたらす年老いた巫女もいる。
 舞台となるのが、腐海に寄り添おうとした風の谷ではなく、森を切り開かんとするたたら場で、『ナウシカ』で言えばトルメキア側に比定できるのが違いではあるが、むしろその点を踏まえたからこそ、たたら場を主な舞台のひとつに引き立てた、とも捉えられる。
 モチーフや題材に共通項を、恐らくは意識的に採り入れながらも、本篇がどこか『風の谷のナウシカ』と趣が異なるのは、『ナウシカ』が苦悩しながらも自身の為すべきことに迷いがなかったのに対し、本篇では揺らぎが大きい。中心にいるアシタカが終始、ひとにつくことももののけにつくことも出来ないのもそうだが、ヒト側にはたたら場と侍、中央政権の思惑の違いがあり、もののけの側にも(もののけであればこそ、とも言えるが)統制は取れておらず、山犬と猪に猩々、それぞれに信念があり本能があって、各々の条理に従って行動している。超越的にものを見ながらエボシ御前への強い憎悪を抱くモロ、仲間たちが次第に愚鈍になっていくのを悟りながらも誇りのために人間との対決に望む乙事主、どちらにも与せず闇雲にヒトを怖れ迷妄に振り回される猩々、それぞれに理が通っているようでいて、身勝手でお互いに相容れるところがない。『ナウシカ』に登場する蟲や巨神兵がまったくその意思を露わにしない分、大いなる摂理に従い統率が取れているように映るのとはまるで趣が違う。
 本篇は『ナウシカ』の主題やモチーフを踏襲しながら、そこから一歩踏み込み、理性や感情があればこそ決してすべてが理想的に交わることがない現実を象徴させている、と読み解くことが出来る。そうした現実に向き合っているからこそ、本篇のアシタカは終始迷い続け、苦しみながら答を出そうとしており、それ故になかなか着地点が定まらないように映る。あれほどのクライマックスを挟んでも、ひとによってモヤモヤしたものが残るのは、そうした据わりの悪さに一因があるのではなかろうか。
 しかし、そうして迷い続けた先に文字通り“爆発”するシシ神というモチーフはなかなかに圧倒的だ。このシシ神とアシタカ達が対峙する過程もまた『ナウシカ』と相通じるものがあるのだが、そもそもこのシシ神自体が、『ナウシカ』のクライマックスを形作るモチーフとはまるで本質が違う。あちらでクライマックスを形成する“王蟲”という存在は、本篇で言えば山犬や猪に近いのだが、シシ神は決して彼らのルールの内側にいない。昼と夜でその姿を変え、触れるものの命を奪うことも救うことも出来る。だがそのルールは、ヒトはもとより、もののけ達にも読み解くことは出来ない。だからサンは重傷を負ったアシタカの処遇をシシ神に委ね、モロや乙事主は自らの運命をシシ神に託したりはしない。そこに触れることの恐ろしさを本能的に知っているが故であり、ヒトは森の脅威を取り払うために、自然の不条理を体現するが如きシシ神に牙を剥く。時として“勇気”として賞賛されるであろう人間の行いに潜む、野蛮さや独善性をも、シシ神は暴き立てる。
 そうしてアシタカたちが奔走した結果、辿り着いた結末は、しかし見通しが明るいわけではない。絶望的なまでに変容してしまった世界の前で、ひとはもちろん、もののけたちも森の生き物も等しく、生き方を変えずにはいられないだろう。だが、それでもそこには生命が芽吹いていて、なにかが“生きろ”と囁いている。
 背景を室町時代頃の日本に設定したこともそうだが、『ナウシカ』では充分にかたちに出来なかったことを昇華させようとした意欲作なのである――だからこそ、少々晦渋さを増してしまったのだろう。普通のかたちでは登場させることすら難しい、差別を受けていたひとびとをさらっと登場させ枠組のなかに組み込んでいることや、主要登場人物の大半がいわゆる“まつろわぬ神々”であることなど、追求していくと凄まじく厄介な表現をしたたかに採り入れた作品なのだが、語りはじめるとキリがない。


関連作品:
風の谷のナウシカ
ルパン三世 カリオストロの城(MX4D)』/『千と千尋の神隠し』/『ハウルの動く城』/『ゲド戦記』/『崖の上のポニョ』/『借りぐらしのアリエッティ』/『コクリコ坂から』/『風立ちぬ
誰も守ってくれない』/『ひとよ』/『春を背負って』/『黒蜥蜴(1968)』/『妻よ薔薇のように 家族はつらいよIII』/『はいからさんが通る 後編 ~花の東京大ロマン~』/『幼獣マメシバ』/『この子の七つのお祝いに』/『テルマエ・ロマエ』/『男はつらいよ 知床慕情
メリダとおそろしの森』/『friends もののけ島のナキ』/『ズートピア』/『バケモノの子』/『若おかみは小学生!

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