『パトニー・スウォープ』

『パトニー・スウォープ』予告篇映像より引用。
『パトニー・スウォープ』予告篇映像より引用。

原題:“Putney Swope”/ 監督、脚本&製作:ロバート・ダウニー / 共同製作:ヘンリー・パチャード / 撮影監督:ジェラルド・コッツ / 美術監督:ゲイリー・ウェイスト / 編集:バド・S・スミス / キャスティング:グラリア・ガリーヴィッチ / 音楽:チャーリー・クーバ / 出演:アーノルド・ジョンソン、スタンリー・ゴッドリーブ、アレン・ガーフィールド、アーチー・ラッセル、ラモン・ゴードン、バート・ローレンス、ジョー・マッデン、デヴィッド・カーク、ドン・ジョージ、バディ・バトラー、ペピー・ヘルミーネ、ローレンス・ウルフ / 配給:RIPPLE V
1969年アメリカ作品 / 上映時間:1時間24分 / 日本語字幕:?
2022年7月22日日本公開
公式サイト : https://putneyswope.jp/
TOHOシネマズ日比谷にて初見(2022/7/7) ※監督一周忌特別先行上映


[粗筋]
 広告代理店の社長エリアス(デヴィッド・カーク)が会議のさなかに発作を起こし急逝した。役員達は約款に従い、新たなる経営責任者を決めるための投票を行った。
 ここで想定外の出来事が起きる。選出されたのは、取締役では唯一の黒人である、音楽プロデューサーのパトニー・スウォープ(アーノルド・ジョンソン)だった。自分に対して投票できない、というルールゆえに、自ら決断をしたくなかった者、他の取締役に委ねたくなかった者が、よもや票を集めるまい、と高を括って投票した結果であるらしい。
 パトニーはこの大抜擢に、「会社を変えるつもりはない。変えるくらいならぶっ壊す」と宣言し、実際に大鉈を入れた。一人を除いて取締役を解任、経営陣を黒人中心に刷新する。社名も《トゥルース&ソウル》に改め、経営方針も変更した。
 酒、煙草、戦争玩具の広告は決して打たない、社長との会話は電話ではなく直接を原則とする、そして広告主は依頼に際して100万ドル前払いを条件とする。ただし、売上50%アップが実現できなければ返金する。
 あまりにも型破りな戦略は、しかし大成功を収める。独創的な広告は次々に成果を上げ、パトニーの元には新たなクライアントが殺到した。だが、破格の成功は思わぬトラブルをも招き寄せるのだった――


[感想]
 俳優ロバート・ダウニー・Jr.の父親であり、本篇の日本公開の約1年前に逝去したロバート・ダウニー・シニアは映画監督だったが、何故か日本ではあまり紹介されていなかった。本篇も本国での公開から実に半世紀を経て、初めて劇場公開に至っている。何故ここまで紹介が遅れたのか、実際のところ、本篇を鑑賞すると頷けるものがある。
 本篇は冒頭から一貫して、卑猥なジョークとシュールなシチュエーションが支配した作品である。大枚はたいて招聘したのに好き勝手なことを言って去ってしまう専門家、会議の場で突如絶命した社長の遺体をそのままに、次の経営者を投票で決定する経営陣。「そんなことあるかぁ!」と突っ込みたくなるが、興味深いのは、その「そんなことあるかぁ!」の次に、誰も本心では推していなかったパトニー・スウォープ=黒人の音楽プロデューサーが次期社長として選ばれる、という展開が待っている点だ。既にケネディも暗殺され、時代が変わりつつある1969年にも、こういう認識があったことを窺わせる。
 その後も本篇は、ある程度現実のラインを守りつつも、あり得そうもない展開が陸続と繰り広げられる。経営陣を黒人中心にし、クライアントに対して傲慢な態度を取りながらも、それまでにない広告戦略で成功を収めてしまう。それからもパトニーの勢いは止まらず、やりたい放題、したい放題だ。
 現実に沿いながらもブッ飛んだ展開の連続は、終始ニヤリとさせるのだが、一方で戦慄もまた覚える。ここで起きているのは、決して平等な社会の実現ではない。ただ、白人優位が黒人優位に取って代わった、に過ぎないのだ。白人を追放するだけでなく、弱者を虐げ、異文化に対する軽侮や敵愾心を露わにする。序盤でこそ、それまでの経営陣に敬意を表する素振りを見せるが、権利を手中に収めたパトニーは、まるでそれまでの侮辱に報復するかのように振る舞うのだ。
 白人社会の側から安易な見方をすれば、自らの優位を手放すべきではない、という主題のようにも読み取れる。しかし、もう少し客観的な視点に立てば、どんな人種であれどんな境遇であれ、優位に立てば差別的に振る舞う可能性がある、と警鐘を鳴らしている、としか見えない。多かれ少なかれ、人間は自らの優位に乗じて増長する傾向があり、本篇はそれを戯画化しながらもあからさまに描き出している。
 物語は終始、シュールな狂騒を繰り返し展開し、派手に幕を引く。独特の爽快感もあるが、恐らく割り切れない感覚をも味わうはずだ。それこそが、本篇が播こうとした種なのかも知れない。当然にあると信じ切っている常識への懐疑か、或いは自らに訪れる変節への警鐘か、どう受け止めるにせよ、そのコミカルな表現に侮りがたい毒を封じた作品である。
 ――ただ、そんな風に読み解けるとはいえ、恐らく本篇を充分に理解するには、1960年代のアメリカ文化に精通している必要があるのではなかろうか。
 劇中に織り込まれる、パトニーの会社が手懸けたCMは、本篇の展開と同様にシュールな印象だが、どれも実在しそうなリアリティがある。断言は出来ないが、いずれもこの当時に元ネタとなるCM、広告が存在したのではなかろうか。
 だとすれば、そのあたりのに知識がない私には正しく評価出来ていない可能性がある。そして恐らく、それこそが日本での一般公開に至らなかった一因なのではなかろうか。
 ただ、映画に限らず、創作物は受け手それぞれの解釈でいいのだ。それを他人に強制さえしなければ、描かれたものをどう受け止めるか、はそれぞれの自由で、その解釈こそが受け手の中に生まれたもう一つの作品と言える。当時のアメリカの文化に明るくない私が見つけ出した、本篇に対する私の解釈も、いま日本で本篇を鑑賞したわたしのものだ。
 ひどく奇妙で歪で、何かしら意識のなかにあるものを刺激せずにおかない本篇は、製作から50年以上経たいま初めて観るからこその面白さが確かにある。


関連作品:
ペントハウス
十二人の怒れる男』/『アラビアのロレンス

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