TOHOシネマズ日本橋、スクリーン5入口脇に掲示された『ザリガニの鳴くところ』チラシ。
原題:“Where the Crawdads Sing” / 原作:ディーリア・オーウェンズ(早川書房・刊) / 監督:オリヴィア・ニューマン / 脚本:ルーシー・アリバー / 製作:リース・ウィザースプーン、ローレン・ノイスタッター / 製作総指揮:ベッツィ・ダンバリー、ロンダ・フェール / 撮影監督:ポリー・モーガン / プロダクション・デザイナー:スー・チャン / 編集:アラン・エドワード・ベル / 衣装:ミレン・ゴードン=クロージャー / 音楽:マイケル・ダナ / オリジナル主題歌:テイラー・スウィフト『Carolina』 / 出演:デイジー・エドガー=ジョーンズ、テイラー・ジョン・スミス、ハリス・ディキンソン、マイケル・ハイアット、スターリング・メイサー・Jr.、デヴィッド・ストラザーン / ハロー・サンシャイン製作 / 配給:Sony Pictures Entertainment
2022年アメリカ作品 / 上映時間:2時間6分 / 日本語字幕:杉山緑
2022年11月18日日本公開
公式サイト : https://www.zarigani-movie.jp/
TOHOシネマズ日本橋にて初見(2022/11/18)
[粗筋]
1969年、ノースキャロライナ州の湖に面した櫓の下で、チェイス(ハリス・ディキンソン)という青年の遺体が発見された。櫓は足場の一部が外れやすくなっており、転落の可能性はあったが、保安官は殺人事件の線も念頭に捜査を始める。
町の人々の噂話から、保安官はカイア(デイジー・エドガー=ジョーンズ)という女性に着目する。湖から繋がる湿地のほとりに建つ一軒家で、周囲と関わりを断って一人で生活する彼女を、町の人々は《湿地の少女》と呼んで忌避していた。保安官達が捜索に赴くと、一軒家からはチェイスの身体に付着していた繊維と色合いのよく似たニット帽が見つかる。その様子を物陰から窺っていたと思しいカイアは逃走、保安官はボートであとを追い、彼女を逮捕した。
誰もがカイアの有罪を信じる中、地元で弁護士を務めるトム・ミルトン(デヴィッド・ストラザーン)は、「どんな人間であっても弁護を受ける権利はある」と彼女の弁護を買って出る。好きなように裁けばいい、と捨て鉢になっていたカイアだが、ミルトンに諭されるうちに、自らの生い立ちを語りはじめた。
長年ひとりで暮らし続けるカイアにも、かつては家族がいた。だが、父親の暴力の激しさに耐えかね、まず母が家を出て行った。やがてカイアの兄姉も次々に家を飛び出し、カイアは父と二人、取り残される。父との接触を最小限に保つことで何とかやり過ごしていたカイアだが、母から届いた手紙を契機に父もまた家を捨て、彼女ひとりが取り残されたのだという。
カイアはそれでも何とか生き延びるべく、湿地に適応した。付近で採れるムール貝を、父としばしば訪れていた雑貨店の主ジャンピン(スターリング・メイサー・Jr.)に卸し、生活必需品を入手した。カイアが町の人々から除け者扱いされていることは承知していたジャンピンも、幼い頃から知る彼女に力添えするように、あえて取引を受け入れる。
そうして、辛うじて命を繋ぐだけだったカイアの生活に輝きをもたらしたのは、幼少の頃に短い間だけ顔を合わせたテイト(テイラー・ジョン・スミス)との再会だった――
[感想]
アメリカでは2年連続で売上トップとなった大ベストセラー、日本でも賞賛を集めたミステリ小説の映画化、加えて意味深で魅力的なタイトルもあって、かなり期待の大きかった作品である――が、率直に言えば、物足りない、と感じてしまった。
物語は殺人事件の捜査から始まり、容疑者となったカイアが弁護士に向かって自らの生い立ちを語る、という体裁で、本筋となる彼女の半生を描いていく。
幼くして家族全員に去られ、湿地の家でひとり暮らすようになった、というカイヤの物語はかなり衝撃的だが、しかしそこに絡むのは家庭内暴力、育児放棄、そして社会福祉の網が行き届かない現実が複雑に織り込まれている。常識的に考えればカイアは保護の対象であり、劇中でも福祉の担当者が彼女の身辺を探る描写があるが、湿地以外での暮らしを知らないカイアは逃げてしまう。知らず知らずのうちに悪循環に嵌まっていくのもまた、こうした貧困、虐待に関する問題の根深さを感じさせる描写である。
だがその一方でカイアには、ひとりで生きていくに相応しいしたたかさも覗く。父との生活を手がかりに、湿地の貝が売り物になる、と考えて小さな商店との取引を始め、その収入で暮らしの基盤を築く。売り物として心許ないことも、商店の主が同情から幼い彼女との取引に応じてくれていることも、カイアはある程度承知のうえだろう。解った上で、湿地から離れずに済むよう利用する逞しさも、カイアには感じられる。
そんな彼女の世界に、新しい人間が入り込むことで変化が生じる。初恋と別れ、そして新たな出会いを経て、初めて彼女の視野が開けていく。学問を知り、そこに彼女が湿地で育んだ知識と感性が結びつくことで、カイアは初めて、表の世界と関わる道筋を見つけるのだ。
しかしそこにふたたび障害が生じる。このへんの詳細は伏せるが、カイアが追い込まれていく出来事に、そもそも彼女がこういう境遇に陥ったきっかけを彷彿とさせるものがあって、現実でもしばしば耳にする悪循環を織り込む手管が絶妙だ。
そうした多くの部分に、アメリカのみならず、世界中の貧困家庭が陥りがちな悲劇、悪循環を、本篇は巧みに取り込んでいる。それをカイアが緩やかに自覚し、振りほどいていく物語には静かだが現代的な逞しさがあって、原作が多くの支持を受けたのも理解が出来る。
ただ、この映画版においては、表層を掬っただけ、という印象がどうしても否めない。ここまでに綴ったように、カイアの設定やドラマに貧困や女性問題にまつわるモチーフが無数に採り入れられているが、意識、感情的に深く踏み込んだ描写には乏しい。確かに問題としては汲まれているが、それがカイアに齎した影響<、感情面の起伏があまり感じられない。役者の表情をどう抽出していくか、湿地の風景に如何に反映させていくか、が映画としては勘所だったはずが、本篇はそうした点にあまり拘泥せず、原作にちりばめられたパーツを拾うことに気を配るあまり、表層的な印象に繋がってしまった、と考える。
これは作り手としてどこを重視するか、という考え方の違いもあるように感じるが、個人的に、原作やその主題が持つポテンシャルを、映画として引き出しきれていない、というのがどうしても惜しまれてならない。主題と演技、映像がそれぞれに共鳴していれば、更に力強く、深い衝撃をもたらす傑作となり得たように思うのだ。
この作品を駄作だとは微塵も思わない。着眼点と、それをカイアというひとりの女性に集約することで極めてシンプルに明快に描き出す巧みさ、そしてその先に表出する、カイアという女性の歩んだ日々の過酷さ、学んだ強さを凝縮したようなワンシーンの静かで鮮烈な印象はいつまでも記憶に残る。表層的、とは感じたが、少なくともその奥行きを窺うことは出来る仕上がりだ。著名な俳優こそほとんど登場しないが、それゆえに俳優の持つイメージに囚われず作品世界に没入できる点も高く評価出来る。
佳作であることは疑いないけれど、そこに秘めた、傑作に昇華される可能性が惜しまれて仕方のない作品である。
関連作品:
『ハッシュパピー ~バスタブ島の少女~』
『マーターズ(2015)』/『キングスマン:ファースト・エージェント』/『ナイトメア・アリー』
『コールドマウンテン』/『ウィンターズ・ボーン』/『ゴーン・ガール』/『ノマドランド』
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