『ダウト〜あるカトリック学校で〜』

『ダウト〜あるカトリック学校で〜』

原題:“Doubt” / 監督・脚本:ジョン・パトリック・シャンリィ / 原作戯曲:ジョン・パトリック・シャンリィ『ダウト 疑いをめぐる寓話』(白水社・刊) / 製作:スコット・ルーディン、マーク・ロイバル / 製作総指揮:セリア・コスタス / 撮影監督:ロジャー・ディーキンス,ASC,BSC / 美術:デヴィッド・グロップマン / 編集:ディラン・ティチェナー,A.C.E. / 衣装:アン・ロス / 音楽:ハワード・ショア / 出演:メリル・ストリープフィリップ・シーモア・ホフマンエイミー・アダムスヴィオラ・デイヴィスアリス・ドラモンド、オードリー・ニーナン、スーザン・ブロンマート、キャリー・プレストン、ジョン・コステロー、ロイド・クレイ・ブラウン、ジョセフ・フォスターII世、ブリジット・ミーガン・クラーク / 配給:WALT DISNEY STUDIOS MOTION PICTURES. JAPAN

2008年アメリカ作品 / 上映時間:1時間45分 / 日本語字幕:松浦美奈

2009年3月7日日本公開

公式サイト : http://www.movies.co.jp/doubt/

TOHOシネマズシャンテにて初見(2009/03/07)



[粗筋]

 1年前のケネディ大統領暗殺の衝撃に未だ揺れている、1964年のアメリカ。

 ニューヨークのブロンクスにあるカトリック系の学校セント・ニコラス・スクールに勤めるシスター・ジェイムズ(エイミー・アダムス)はフリン神父(フィリップ・シーモア・ホフマン)の行動に違和感を覚えた。最近転入してきた、学校初の黒人生徒ドナルド・ミラー(ジョセフ・フォスターII世)がフリン神父によって授業中呼び出され、戻ってきた彼は妙に落ちこんでいる様子だった。話を聞こうとすると、彼の息が心なしか酒臭い。

 生徒の不品行について頻繁に報告するように注意されていたこともあり、シスター・ジェイムズは校長であるシスター・アロイシス(メリル・ストリープ)にその疑念を打ち明けた。シスター・アロイシスは眉をひそめると、怖れていたことが起こった、と呟く。

 呼び出されたフリン神父は、シスター・アロイシスの追求にしばし言葉を濁していたものの、やがて事情の一端を打ち明けた。ミサの際に従者を務めていたドナルドが、ミサに使うワインを口にする現場を目撃されたのである。家でも学校でも孤独な彼を、庇おうとしたのだとフリン神父は弁解した。

 シスター・ジェイムズはその説明に納得したが、シスター・アロイシスは逆に、疑惑が確信に変わったと言う。シスター・ジェイムズは、ただこの上司が、フリン神父を忌み嫌っているが故に疑惑を持ったのでは、と訝り始める。鉄のように厳格で、些細な規則違反さえ見逃さないシスター・アロイシスに対し、フリン神父は清濁併せ呑み、教会の発展と信者の幸福のために柔軟な姿勢を取っていた。同じ信仰を抱きながら極端なほどに対照的な神父に反感を抱くあまり、シスター・アロイシスは彼を疑うのではないか。

 そんなシスター・ジェイムズを「純真すぎる」と評し、女校長は更に神父を追求する。――果たして、厳格なシスターの疑いは正鵠を射貫いているのか、それとも……

[感想]

 2009年に開催された第81回アカデミー賞で、受賞こそ逃したものの、本篇は主要キャスト4名を候補に送りこんでいる。その事実からも察せられる通り、演技の力強さが強く印象に残る作品だ。

 私は粗筋からこの作品を“ミステリー・ドラマ”と想像し、観たあともそういう風に説明してしまうが、しかし同じような気持ちで劇場に足を運ぶと、釈然としない想いを抱いて帰る方も少なくないだろう。“疑惑”について語られ追及が行われるが、しかし具体的な物証について検証を重ねるような描写はまるでなく、最後までその現場で何が行われていないのか判然としないまま決着するからだ。ラストシーンでは、メリル・ストリープ演じる女校長が総括するような説明を行うものの、それさえも妙に胡乱で納得のいくものではない。

 本篇で繰り広げられるシスターと神父との論戦は、それぞれの信条を剣として行われている。シスターは自らの信じる聖書の教えに基づき、長年の経験と直感に基づいて悪を裁こうとする。対する神父は、リベラルな信条に添って、ドナルドの行為をいちど限りの過ちと赦し許容し、かつ自身に向けられた疑惑について明白な証拠をシスターに求める。直感を信じるシスターは証拠を提示する必要を認めず、これでは神父は釈明のしようもない。そういう状況で神父は、直接反論や糾弾はせずに、説教というかたちで抵抗を試みるが、それも終始、シスターと噛み合わない。

 言ってみれば本篇は、“疑惑”という軸の周囲で展開する価値観の相克を描いたドラマなのである。“疑惑”を巡って駆け引きが行われるが、“疑惑”そのものよりも、その感覚に翻弄される姿を描くことにこそ焦点が当てられている。明確な法律のない法廷劇のような装いであり、だからこそ私はミステリー・ドラマと捉えたのだし、途中までは他の方でもそう感じると思われるが、しかし結果として納得のいく解決が示されることのない本篇には、不満を抱く可能性がある。

 そういう方には、是非とももういちど、細かな描写を振り返っていただきたい。何か、提示されたまま言及されずじまいだった場面を思い出しはしないだろうか。そして、言及はされたがはっきりとした弁解のされなかった行為に、違和感を覚えないだろうか。

 そうして振り返っていくと、本篇は実に丁寧に構築されているのに気づくはずだ。あの行為にはこういう意味もあったのでは、仄めかしたのみの出来事にはこんな意図があったのではないか、と。

 しかし、そうして検証していくうちに気づくはずだ。観客として接していた自分もまた、登場人物たちと同じように“疑惑”に絡め取られていることに。そして、シスター・アロイシスと同様の自問を繰り返すことになるだろう。

 それぞれがアカデミー賞のノミネートを受けた主要キャストの演技が、その奥行きのあるドラマにいっそうの説得力を齎している。女校長の厳格さと、神父の優しく包容力のある言動のとのあいだで揺れるシスター・ジェイムズを好演したエイミー・アダムス。登場は短いながら、女校長の追求に対して切実な親心を吐露したヴィオラ・デイヴィス。同じ神に仕えながら正反対のアプローチを試みるふたりの、行き詰まるような駆け引きを演じきったふたりのオスカー獲得者メリル・ストリープフィリップ・シーモア・ホフマンは圧巻だ。

 人間が如何に感情に翻弄されやすく、疑惑というものに侵蝕されやすいかを、理知的に理性的に描ききった名品である。アメリカという国が辿った価値観の変遷を思い合わせて観ると、なおさらに興味深い。

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