暗闇のスキャナー

暗闇のスキャナー 『暗闇のスキャナー』

フィリップ・K・ディック山形浩生[訳]

Philip K. Dick“A Scanner Darkly”/translated by Hiroo Yamagata

判型:文庫判

レーベル:創元SF文庫

版元:東京創元社

発行:1991年11月29日(2002年3月1日付7刷)

isbn:4488696090

本体価格:800円

商品ページ:[bk1amazon]

 物質Dと呼ばれる謎の薬物の出所を探るために、自らもジャンキーの輪のなかに紛れて捜査をしているロバート・アークター。だが、彼らとの共同生活に馴染むにつれて物質Dの中毒が加速し、覆面捜査官としての言動にも影響が及びはじめていた。そんなさなか、上司であるハンクから、何らかの情報を持っている可能性が高いとして、ひとりのジャンキーの監視を命じられた。その人物は、あろうことかロバート・アークター。覆面捜査官同士もそれぞれの潜入中の顔を知らないが故のこの奇怪な状況に、次第にアークターの意識は分裂していく……

 SF作家として名高く、『ブレードランナー』『トータル・リコール』『ペイチェック』『マイノリティ・リポート』など多数の映画化作品が存在するフィリップ・K・ディックが自ら生涯最大の傑作と認めた長篇である――が、読んでみると思ったほどSFっぽさはない。主人公アークターを混沌へと導いていく素材のあちこち、たとえば特殊な技術を用いた監視装置であるとか、覆面捜査官同士が互いの素性を知らぬまま交流するためのスクランブル・スーツというユニット、作中で用途があまり説明されない脳彩スコープなどといったアイテムにSFらしさが垣間見えるが、根本はドラッグ小説、と言っていい。その製造過程も謎に包まれている物質Dによって汚染されていく男の恐怖と狂気とを、その破綻した思考をトレースしながら描いていく物語だ。

 ドラッグにより混濁した現実と空想をそのまま織りこんでいく筆致のために困惑させられることがしばしばだが、しかし読み終わってみると、きちんと筋道は用意されていたことが解る。このあたりはさすがにSF作家である。

 しかしそうして計算ずくで描かれている物語の中心に位置するのは、ドラッグというものに頼らざるを得なかった人々の滑稽だが悲しい姿だ。自らもドラッグに手を出したことのあるディックが、同じようにドラッグに食われた人々の姿を刻みつけることが目的のひとつだったというが、なるほど人物像は狂っているなりの一貫性が保たれているあたり、奇妙に生々しい。

 決着ではほとんどSF要素に依存することなく、またこれほど派手で破滅的な展開を踏んできたにしては実に静かなラストシーンだが、しかし不思議と余韻は清澄で快い。どのみち主要登場人物たちに明るい未来など想像できないものの、作者が彼らに向ける視線の暖かさだけは不思議と伝わってくる。

 謎解きめいた趣向もなくSF的なアイディアも希薄、だがその分だけ表現の厚みが強烈な異色作。作者自身が最高傑作と言い、訳者もあとがきでそれを認めているのもなるほどと頷ける。如何せん、作者はドラッグを否定する意図で執筆していたにも拘わらず、やもすると薬物が齎す酩酊に惹かれがちな人種を更に陥れる効果があるようなので、迂闊に人に薦めづらいのが難だが。

 例によって映画版を鑑賞する前に予習として読んだのだが、現在この創元SF文庫のヴァージョンは一般市場には流通していない。翻訳権が早川書房に移り、2005年末に浅倉久志氏訳による新版が発売されている。実のところ発売直後に確保しており、予習もそちらを用いるつもりだったが、公開間近になって行方不明になってしまったため、先に発見できた旧版を読んだ次第である。訳文が異なるだけで内容に違いはないはずなので、興味のある方は新版で読んでいただきたい。

 ただ、この創元SF文庫版には訳者による丁寧な作品分析を含むあとがきが収録されているので、これはこれで一読の価値があると思う。店頭在庫や古本屋に当たって旧版を捜す、というのも一興だろう。

スキャナー・ダークリースキャナー・ダークリー

ハヤカワ文庫SF

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