『ベオウルフ/呪われし勇者』

原題:“Beowulf” / 監督:ロバート・ゼメキス / 脚本:ニール・ゲイマン、ロジャー・エイバリー / 製作:ロバート・ゼメキス、スティーヴ・スターキー、ジャック・ラプケ / 製作総指揮:ニール・ゲイマン、ロジャー・エイバリー、マーティン・シェイファー / 共同製作:スティーヴン・ボイト / 撮影監督:ロバート・プレスリー / 美術:ダグ・チャン / 編集:ジェレマイア・オドリスコル / 衣装:ガブリエラ・ペスクッチ / シニア・ヴィジュアル・エフェクト・スーパーヴァイザー:ジェローム・チェン / 音楽:アラン・シルヴェストリ / 作曲:アラン・シルヴェストリ、グレン・バラード / 出演:レイ・ウィンストンアンソニー・ホプキンスジョン・マルコヴィッチロビン・ライト・ペンブレンダン・グリーソン、クリスピン・グローバーアリソン・ローマンアンジェリーナ・ジョリー / イメージムーヴァー製作 / 配給:Warner Bros.

2007年作品 / 上映時間:1時間54分 / 日本語字幕:太田直子

2007年12月01日日本公開

公式サイト : http://www.beowulf.jp/

TOHOシネマズ六本木ヒルズにて初見(2007/12/01)



[粗筋]

 英雄と謳われるフロースガール(アンソニー・ホプキンス)が治める王国に、ある日忽然と災厄が訪れた。壮麗な館で催された祝宴に醜怪な怪物・グレンデル(クリスピン・グローバー)が出没、殺戮の限りを尽くして去っていった。これを機に館は封印され、フロースガールは諸国に怪物を倒せる英雄の来訪を求める触れを出した。

 数多の勇猛果敢な者が呆気なく倒され、その血で王国を染めていったのち、最後にこの声に応え、嵐の海を渡ってやって来たのが、ベオウルフ(レイ・ウィンストン)であった。勇猛果敢で人望も厚く、実際に幾度も怪物を討ち倒し吟遊詩人も語り継ぐ本物の英雄であったが、自らが吟遊詩人の如く、己の功績を大きく喧伝する若さも留めていた。

 腹心ウィグラーフ(ブレンダン・グリーソン)を筆頭に精鋭を引きつれてきたベオウルフは、どうやら夜の騒ぎに惹きつけられるらしいグレンデルを呼び寄せるために、悲劇と恥辱の跡として封印されていた館で宴を催させる。フロースガール王自慢の蜜酒よりもベオウルフが惹きつけられたのは、若く美しい王妃ウィールソー(ロビン・ライト・ペン)である。どうやら年の離れた王とは冷えた間柄にあるようだが、王妃、まして父の代から恩義のあるフロースガール王の細君に手出しすることなど出来るはずもなく、ただ見つめるしかできない。

 王が眠り、国の者たちが住居に引き上げていったのち、果たせるかな、グレンデルは現れた。犠牲者を出しながらも、ベオウルフは徒手空拳で対峙し、巧みに急所を突いて翻弄し、逃走しようとしたグレンデルの腕を、扉を使って引きちぎる。化物は逃げ去っていったものの、ウィグラーフたちは主君の勝利を確信した。

 明くる日、フロースガール王らの賞賛を浴びながら、しかしベオウルフの心には一抹の不安が残っていた。それを証明するかのように、祝宴の翌朝、悪夢に目覚めたベオウルフが見たのは、館の梁から吊される部下たちの無惨な姿であった……

 フロースガール王は、グレンデルには母親がおり、恐らく復讐のために襲ったのであろうと告げる。ベオウルフと、偶然現場を離れていたために難を免れたウィグラーフは、遺恨を断つべく怪物が住処としていた沼地を訪れる。ウィグラーフを待たせ、暗闇の洞窟へと乗り込んでいったベオウルフが遭遇したのは、醜悪な化物――ではなく、それまで彼が遭遇した誰よりも美しく、蠱惑的な女(アンジェリーナ・ジョリー)の姿をしていた……

[感想]

フォレスト・ガンプ/一期一会』でアカデミー賞に輝くロバート・ゼメキス監督が、前作『ポーラー・エクスプレス』に引き続き、パフォーマンス・キャプチャーという手法でもって創り上げた、最先端のデジタル・アニメーション映画である。

 ――と、技術的には新しい領域に突入していると言えても、やはりあくまで3DCGであることに変わりはない。こうした映画は、ゲームに馴染んでいる目には、途中に挿入されるムービーを繋ぎあわせて長尺にしただけ、という印象がどうしても色濃くなることが多いが、本編もその轍を踏んでしまっている。

 だがそこはさすがにオスカー監督が手懸けているだけのことはある、と言うべきか、同傾向の趣向を用いた先行作と比べれば映画として格段に完成され、洗練されていることも事実である。

 こうした映画は、技術の方向性を把握しているという理由からなのか、純粋に演出を学んできた人物ではなく、その技術の現場に携わっていた人物が監督に就くことが多いが、そうした作品群と本編が一線を画しているのは、きちんと独自の演出法を築きあげてきた監督が手懸けていることにまず因っていると思われる。単純に“技術”を駆使したいという意向だけで話を組み上げたり演出していると多分に自慰的になってしまいがちだが、技術の価値を認識しつつも“映画”として、“物語”としての質をきちんと意識している本編にそうした臭みはいっさい感じない。

 また、CGにてキャラクターを1から構築し、その素材として俳優の動きを用いる従来のモーション・キャプチャーと異なり、本編では名のある、またキャリアの充分な俳優を招き、その顔立ちをベースとして映像を創り上げているため、作り物っぽさが和らげられている。他方で、CGであるということを活かして、実際よりも体格を良くしたり、特殊メイクではどうしても無理の出る数十歳という年齢の変化を自然に表現している。つまり、それぞれの俳優の熟達した演技や特徴のある容貌を活かしながら、その演じられるキャラクターの幅を拡張しているのだ。演技のためにわざわざ肉体改造をしたり、特殊メイクに時間を費やさなくて済むことで、俳優の負担を軽減している点でも価値があるが、表現的にも極めて高くなった自由度を活かしていることに注目していただきたい。非現実的なカメラワークもさることながら、人物像を自在に操れる利点をきちんと有効に用いているのだ。

 脚本自体も、実際の叙事詩をうまくアレンジして奥行きを持たせており、神話的な力強さに富んでいる。出来れば、誇張の含まれない本当のベオウルフの勇姿や、後年の愁いを帯びた表情に繋がる出来事にもう少し触れて更に補強を施して欲しかったと思うが、しかしそこで控えたからこそ“英雄叙事詩”としての神秘性をギリギリで保っているとも捉えられる。このあたりは好みの問題だろう。

 大傑作、と呼ぶには物足りなさを覚えるが、CG主体の映像表現が、それ自体特記されるものではなく、表現手法のひとつとして成り立つ寸前にあることを感じさせる、重要な里程標となる作品には違いない。

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