『地球爆破作戦』

『地球爆破作戦』

原題:“Colossus : The Forbin Project” / 原作:D・F・ジョーンズ / 監督:ジョセフ・サージェント / 脚本:ジェームズ・ブリッジス / 製作:スタンリー・チェイス / 撮影監督:ジーン・ポリト / 美術:アレクサンダー・ゴリツェン / 衣装:イーディス・ヘッド / 音楽:ミシェル・コロンビエ / 出演:エリック・ブレーデン、スーザン・クラーク、ゴードン・ヴィンセント、ウィリアム・シャラート、レオニード・ロストフ、ジョーグ・スタンフォード・ブラウン、ウィラード・セイジ / 日本語吹替版声の出演:山田康雄北浜晴子、納谷悟郎 / DVD発売元:Universal Pictures

1970年アメリカ作品 / 上映時間:1時間41分 / 吹替翻訳:?

2008年07月11日〜13日期間限定劇場公開

2008年08月07日DVD日本盤発売 [amazon]

公式サイト : http://www.unitedcinemas.jp/toyosu/title_x/

ユナイテッド・シネマ豊洲にて初見(2008/07/11)



[粗筋]

 冷戦下のアメリカは、チャールズ・フォービン博士(エリック・ブレーデン/山田康雄)の開発による画期的な防衛システム“コロッサス”を発表した。膨大な情報を集積し、自律的に志向し学習を繰り返すコンピュータであり、世界の恒久平和に最善の策を大統領らに代わって支持する、というものである。巨大なユニットはとある山脈に埋め込まれ、離れた土地にある管理室でプログラムの調整や、思考するシステムとの意思疎通を図る形で管理を行う。このシステムが全世界の武力を監視することによって、人類滅亡に結びつくような大戦争は起きなくなるはずだった。

 記念すべきその稼働の日、全世界にシステムの存在を公表したのち、大統領(ゴードン・ヴィンセント)らはホワイトハウスで記念パーティを催していたが、しかしその矢先に、いきなり想定外のメッセージを“コロッサス”は弾き出した。

『私と同じシステムが、別に存在する』

 そんな馬鹿な、と驚愕するフォービンだったが、“コロッサス”の調査に狂いはなかった。偶然にもほぼ時を同じくしてソビエト連邦が極めて酷似した防衛システムを開発、稼働させていたのである。

 だが、そこまでは決して大きな問題ではなかった。何かが狂い始めたのは、“コロッサス”がソビエト側のシステム“ガーディアン”との交信を求めたあたりからである。大統領らは緊迫状態にある外国の防衛システムとの交信に難色を示すが、フォービン博士は“コロッサス”の能力を知っているからこそ、要望を無碍にするべきではないと主張した。ソビエト側のシステムを開発したのがフォービンの恩師であったことから、双方の開発者が同様の提言を行い、結果的に交信は開始する。

 ふたつのシステムは自発的に言語の調整を図り、人間には解らない共通の言語を開発すると、活発な交流を始めた。だが、そうして次第にシステムが人間の管理下から離れていくことに恐怖を覚えたアメリカ・ソビエト双方の首長は、回線を遮断する。

 途端、ふたつのシステムは苛烈な報復に出た。互いの重要な施設に向かって、ミサイルを放ったのである――交信の回復が実現しなければ、迎撃はしない。

[感想]

 いちど劇場公開されたきり日本では映像ソフト化が実現されなかった、いわば幻のSF映画であるらしい。リクエストによってこの夏、ようやくDVDリリースが実現し、それに合わせてユナイテッド・シネマ豊洲にて期間限定の上映を、初日の終了までタイトルを伏せたままで行う、というイベントにて鑑賞した。……生憎と、提示された情報が多かったために、私はチケット購入直後に正体を察知してしまい、上映された瞬間での驚きまで味わうことはできなかったが。

 しかし、なるほど映像ソフトとしてのリリースがないことを惜しまれた作品であるのはよく解る。昨今のSF映画で頻繁に使用されるモチーフの、極めて洗練された完成型が1970年の時点で提示されているのだから。

 コンピュータが考えられないほど巨大であったり、タイプライター風の機械による緩慢な交信、かと思えば今でもまだ達成されていないスムーズなテレビ電話のシステムがあったり、翻ってコンピュータ用語がまったく浸透していなかったり、と如何にも時代がかった部分は多々あるが、作中で見せるシステムの自己発展の流れなどは今でもリアルに感じられるほど、巧く練り込まれている。あの急転直下にも感じられる結末に向かって、自然な話運びを構築しているのである。

 他方で、よく考えられたSFであるにも拘わらず、特撮にはほとんど依存することなく、大半が会話のみで組み立てられているあたりにも注目する必要があるだろう。ホワイトハウスにシステムの管理室、クレムリンの執務室など舞台は幾つかあるが大半が室内であり、雰囲気は密室劇とさほど変わらない。恐るべき出来事が大半情報として提示されるだけなので、映像的な派手さは皆無だが、それだけに想像力を刺激する緊迫感に満ちている。作中、台詞以外の形で示された“脅威”はわずかだが、しかしそのシチュエーションの異常さが終盤で訪れる事態の禍々しさをいっそう強調しているのだ。

 今の目で見ると、終始派手さに欠ける内容である。特撮によるスペクタクルがいっさい盛り込まれていないのもそうだが、途中で必然的にやや色っぽい状況が提示されても、複雑な空気を醸成するに留まり、決してそこから踏み込まない。その保たれた節度もまた古さを感じさせるとともにかつての映画が備えていた品格を湛えているが、如何せんすべてにおいて“寸止め”、インパクト不足の嫌いは免れない。会話をよく咀嚼し、解釈しながら観ればこれほど緊迫した話もないのだが、映像的な迫力やすぐに解るようなラストの衝撃を求める向きには物足りないし退屈でさえあるだろう。当時では決して珍しくなかったはずのエンドロールなし、しかもあの意味深な台詞での結末にも、観客席の一部から驚きの声が上がったほどであるから、内容とは別のところで戸惑うのも事実だろう。

 だが、映像的な要素に因らない思索的なSF、と聞いて魅力を感じるような向きで、かつ時代による表現の変化にも柔軟に対応できるような人であれば、極めて興味深く鑑賞できる作品のはずだ。ソフト化されていないことが惜しまれたのも、本当によく解る。正直、大きなスクリーンで観る価値があるかは疑問なので、豊洲まで駆けつける余裕はない、大スクリーンに拘りがない、という向きはDVDのリリースを大人しく待ってもいいだろう。無論、どんな作品であっても、大スクリーンで観るとまた趣は別なのだが。

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