『激情』

『激情』

原題:“Rabia” / 原作:セルジオ・ビッツィオ / 監督・脚本:セバスチャン・コルデロ / 製作:ギレルモ・デル・トロ、ベルサ・ナヴァロ、ロドリーゴ・ゲレロ、エネコ・リザラーガ / 撮影監督:エンリケ・シャディアック / プロダクション・デザイナー:エウヘニオ・カバレロ / 編集:ダビ・ガラルト / サウンド・エディター:オリオル・タラゴ / 音楽:ルシオ・ゴドイ / 出演:マルチナ・ガルシア、グスタヴォ・サンチェス・パラ、ヨン・ゴンザレス、コンチャ・ベラスコ、ハビエル・エロリアガ / 日本配給未定

2009年スペイン・コロンビア合作 / 上映時間:1時間35分 / 日本語字幕:岸田恵子

2009年10月18日・22日東京国際映画祭コンペティションにて上映

TOHOシネマズ六本木ヒルズにて初見(2009/10/22)



[粗筋]

 スペイン、バスク地方。南米からの移民であるホセ・マリア(グスタヴォ・サンチェス・パラ)は、ローサ(マルチナ・ガルシア)という新しい恋人を得、貧しいながらも幸せの絶頂にいた。

 しかし彼には、激情に駆られやすい悪癖がある。通りすがりに耳にした悪口を根に持って、制裁を加えた彼は、勤務先である建築現場の主任にそのことを咎められると、主任さえも殴り倒してしまう。結果、主任は死んでしまった――ホセ・マリアは、幸せの絶頂で自ら足を踏み外した。

 遙か遠い故郷に戻ることなど出来ず、せめて恋人の傍にいたい、という想いから、ホセ・マリアは意外な場所に身を隠す。そこは、ローサが住み込みで働いている、トーレス医師(ハビエル・エロリアガ)とエレナ(コンチャ・ベラスコ)夫妻の屋敷の、長年使われていない屋根裏部屋であった。

 家人の目を盗んで階下に侵入しては食糧を漁り、ローサの様子を窺う日々。自らの愚行のせいで恋人が追い詰められていることを知りながら、ホセ・マリアはただ傍観するほかなかった。

 屋根裏から脱出することも適わず、時は無慈悲に過ぎていく。そしてある日、いっそう過酷な現実が彼らの前に立ち塞がるのだった……

[感想]

 設定や粗筋だけをざっと眺めると、スペイン版『屋根裏の散歩者』のように聞こえるかも知れないが、ここで登場する屋根裏部屋は、梁の上と屋根の下にある、せいぜい物置程度にしかならない空間のことではなく、きちんと部屋としての体裁を取っている。もともと屋敷にもっと多くの人間が暮らしていたとき、使用人の部屋として用いられていたもののようで、ローサの雇い主である医師夫妻の子供たちが家を出たあたりから閉め切りにされていたことが窺える。ホセ・マリアはローサによっていちどだけ屋敷に通されたとき、かなり奥まで立ち入ってそのことを知っていたために、殺人を犯して逃走しているさなか、忍びこんで身を潜めた、という経緯だ。

 本篇の眼目は、狭い場所に身を潜め、生活を盗み見る昏い悦びを描く――といったものにはなく、その気になれば手で触れられるほど近くにいながら触れることが出来ない男と、彼の罪のために追い込まれながらもなお男に愛を注ぐ女の、苦悩と荒々しい感情とを描くことにある。そのために、屋根裏という異様な生活環境よりも、男がそこで隠れて暮らしている状況も含め、2人共に移民であるという事実、働いていくためには僅かな問題も許されないという現実などによって追い込まれていくことのほうが重く描かれているのだ。

 ただ、どう頑張って観ても、多くの観客はこの主人公ふたりにそう簡単には共感できないだろう。出逢ってほとんど間もなく事件が発生して男が行方をくらましたため、ふたりとも互いの詳しい素性を知らない。なのに激しくお互いを求める胸中は、安易には理解しがたい。

 男のほうに限って言えば、女に執着する理由は多少理解できる。屋根裏部屋に潜み、脱出もままならない男にとって、現実世界との繋がりは女の存在しかない。途中から男は、屋敷に電話回線がふたつあることを利用して、遠方からかけていると装って女と電話越しで話をすることが出来るようになるが、そのことでますます女に対する執着を深めたと見える。

 謎めくのは女のほうだ。ごく常識的に考えて、女には男をここまで愛し続ける理由はないように思える。移民という、決して歓迎されていない立場で、しかも恋人が殺人を犯したとなれば、雇い主の心証が悪くなるのは必至だ。この物語ではたまたま夫人のほうが寛容で、女に理解を示してくれたからこそ事無きを得ているが、その後女は更に、働く上で非常に不利な状況に陥っている。女の友人は極めて現実的な、観客が普通に考えつく類の助言を女にしているが、しかしそれでも女は自らを追い込み、男への思慕を募らせるような道を選択する。

 だが、そうして理解に苦しむ、疑問を残すような状況だからこそ、ある意味でこのふたりの互いに寄せる愛情、劣情は非常に純粋なものだ、と言える。確たる動機も根拠もなく、狂おしく求めているからこそ、理屈では説明の出来ない“愛”というものを的確に描いている、とも捉えられるのだ。

 象徴的なのはクライマックス、最後の通話で男が女に吐露する心情である。「君のことは何も知らない。君の未来を壊してしまったが、君がどんな将来を思い描いていたのかも知らない」と涙にむせび訴えたあと、言葉に詰まり、ようやく搾り出したのはごくシンプルな「愛してる」という表現だ。

 これは東京国際映画祭での上映後、監督が質問に応えて口にしたことだが、出逢って間もない、互いにとって理想的な相手である、としか思えない瞬間に引き裂かれたからこそ、あそこまで長く愛情を持ち続けることが出来たと、そういう解釈が可能なように描いたのだという。なるほど、と頷ける話だ。惹かれ合ってまだ僅かで、実生活において欠点となる部分を知らない――男の激しやすい性格は、普通の暮らしを送っていれば恐らくは結婚生活の妨げになっただろう――だからこそ、障害にぶつかって曇ることもなく、却ってまばゆく感じられる。

 また、これも上映後の質疑応答にてある観客の方が言い、監督も認めた点であるが、男女ともに移民であり、孤独な境遇にあることもふたりの絆を強める役割を果たしていたのは間違いない。男はより極端な状況にあったが、女もまた男以外に縋るものは存在しなかった。もし他に何か、依存する対象があったなら、彼らの感情にも変化が生じたはずだろう。

 詰まるところこの物語は、境遇によって極端なまで先鋭化された、ある意味でとても純粋な“愛”を綴ったものと言える。まるで人生の目的が愛することひとつに凝縮されてしまったかのような、極北のロマンスなのだ。男の行状も女の一途さも、理性では納得できないだろうが、もし自分がこういう立場に追い込まれたら、と考えはじめると際限のなくなりそうな、奥行きのある作品である。

 ……以下、評価には拘わらない余談。

 本篇は終盤で、ネズミ駆除のために薬剤を撒くシーンがある。防毒マスクまで着けた完全防護の業者が行い、処置後5日間は家に出入りできない、として医師夫妻と、このとき帰っていた娘とその子供たちとが一時的に別のところへ待避するのだが――ネズミの駆除って、そんなに危険な薬剤を使うものだろうか。確かに一挙に始末するためには、粘着材や超音波での駆除では間に合わないが……

 如何せん、他所の国の話なので、こういう方法が使われていないとは断言できないし、現実性よりは物語の中での必要からこの手段が用いられていることは明白なので、納得できないから評価から差し引く、ということはしないのだが……どーもモヤッとした気分が拭えなかった。

関連作品:

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