『太陽がいっぱい』

『太陽がいっぱい』 太陽がいっぱい 最新デジタル・リマスター版 (Blu-ray)

原題:“Plein Soleil” / 原作:パトリシア・ハイスミス / 監督:ルネ・クレマン / 脚本:ポール・ジェゴフ、ルネ・クレマン / 製作:ロベール・アキム、レイモン・アキム / 撮影監督:アンリ・ドカエ / プロダクション・デザイナー:ポール・バートランド / 編集:フランソワーズ・ジャヴェ / 音楽:ニーノ・ロータ / 出演:アラン・ドロン、マリー・ラフォレ、モーリス・ロネ、エルノ・クリサ、ビル・カーンズ、フランク・ラティモア、アヴェ・ニンチ、ヴィヴィアーヌ・シャンテル、ネリオ・ベルナルディ、リリー・ロマネリ、ニコラス・ペトロフ、エルヴィーレ・ポペスコ、ロミー・シュナイダー / 配給:新外映 / 映像ソフト発売元:紀伊國屋書店

1960年フランス・イタリア合作 / 上映時間:1時間59分 / 日本語字幕:?

1960年6月12日日本公開

2011年5月28日映像ソフト日本最新盤発売 [DVD Video:amazonBlu-ray Discamazon]

第1回午前十時の映画祭(2010/02/06〜2011/01/21開催)上映作品

第2回午前十時の映画祭(2011/02/05〜2012/01/20開催)《Series1 赤の50本》上映作品

TOHOシネマズみゆき座にて初見(2011/05/05)



[粗筋]

 ナポリの地で酔いしれ遊び呆けるふたりの若者がいる。一方、フィリップ・グリンリーフ(モーリス・ロネ)はアメリカの大富豪の息子で、生活の苦労というものをまるで知らない。だがもうひとり、トム・リプリー(アラン・ドロン)はまるで事情が異なる。フィリップとは幼馴染みだが、トムは貧乏で、フィリップの父に頼まれ彼をアメリカに連れ戻すためにイタリアのモンジベロという田舎町を訪れたが、フィリップにいいようにこき使われている。

 日を追うごとにフィリップのトムに対する扱いは悪くなり、いつしか殺意を抱き始めたトムは、一計を講じた。フィリップの恋人・マルジュ(マリー・ラフォレ)と3人でのクルーズの途上、フィリップが浮気をしたかのような疑惑の種をマルジュの周囲に撒き散らし、ふたりのあいだに諍いを起こさせ、マルジュを下ろすよう仕向けると、洋上でフィリップを殺害する。

 陸に戻ったトムは、様々な策を弄して、フィリップが今も生存しているかのような状況を装った。フィリップのサインを完璧に真似できるようにして、マルジュに対して愛想を尽かしたかのような手紙をタイプでしたためて送る一方、フィリップのパスポートに手を加え、自らがフィリップ・グリンリーフであるかのように振る舞って、死者の足跡を各所に刻んでいく……

[感想]

 サスペンス映画の秀作として未だに評価の高い作品だが、なまじ評価が高いと、その手法はのちに発表される映画や小説、様々なフィクションで踏襲されてしまい、結果としてオリジナルのインパクトは薄まってしまう。

 本篇などはその典型、というふうに感じた。確かにアイディアは優秀であり、中心人物であるリプリーの立ち回り方は見事なのだが、現在の目からは有り体に思えてしまう。他方でもうひとつ、まだまだ防犯技術の乏しい時代に用いられたアイディアの数々は、そういう古さを意識しない人にとっては稚拙に映るだろう。

 音楽で恐怖や緊張を煽るような技も使わず、淡々とリプリーの心情の変化や企みに満ちた振る舞いを追っているだけなので、騒々しく大袈裟な表現を多用するサスペンスに慣れていると非常にゆったりとした、緩い語り口に感じられるのも、人によっては物足りない点だろう。

 だが、もともと評価の高い小説に基づいているだけに、伏線の張り巡らせ方、殺された人物がまだ生きているように装い、遺された口座から金を抜き取る工作の過程など、考慮が行き届いていて見応えがある。パスポート写真の偽造の手順に、手紙についての話回しなど、偽装工作の内容をうまくサスペンスに結びつける技も巧みだ。

 本篇の特に印象的なところは、どこか突き放したような語り口と言えるかも知れない。こうした倒叙型のサスペンスでは、『刑事コロンボ』や『古畑任三郎』といった作品のように、犯人側の心情を丁寧に伝えることで緊迫感を高めていくものが多いが、本篇は中心人物であるリプリーの胸中がいまいち見えてこない。必要な描写はしているのだが、そこにやや過剰な芝居を添えたりしていないので、漫然と見ていると何が起きているのか解らない――下手をするとそこに生じている緊迫の事実にも気づかずに通り過ぎてしまうかも知れない。

 だが、決してあからさまに描写せずとも、びりびりと痺れるような緊張が滲んでくるのは、その理知的な語り口と、寡黙だが雰囲気のあるアラン・ドロンの佇まいによるところが大きい。ただ市場を巡っている姿でさえ目を惹かずにおかないリプリーアラン・ドロンの姿はそれだけで見映えがするが、愁いを帯びた思慮的な眼差しと、その瞳の光の揺らぎが、最小限の動作で緊張や弛緩を伝える。

 そして、本篇の何よりも優れたポイントは、その結末だ。安堵した直後に訪れるあの衝撃の幕切れは、よくよく考えればきちんと伏線に支えられているうえ、リプリーにまとわりついていた呪縛を思わせ、シンプルだが衝撃は大きい。この終幕に、最後に撮されるリプリーの表情が、言いようのない虚無的な余韻を添えている。

 前述の通り、サスペンスとしての趣向のほとんどは他のフィクションで再利用されインパクトを欠いてしまっているし、そもそも本篇で用いられる詐術は大半が今となっては通用しにくいものだ。だがそれでも、いま観てもある程度納得のいくほどきっちりと描かれた犯罪計画の巧みさとその緊迫感の静かな表現は出色であるし、何よりあの鮮烈なラストシーンのくだりだけでも、本篇は今後もサスペンス映画を愛好する者の記憶に残り続けるに違いない。

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コメント

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