『道』

道【淀川長治解説映像付き】 [DVD]

原題:“La Strada” / 監督:フェデリコ・フェリーニ / 脚本:フェデリコ・フェリーニ、エンニオ・フライアーノ、トゥリオ・ピネッリ / 製作:カルロ・ポンティディノ・デ・ラウレンティス / 撮影監督:オテッロ・マルテッリ / 音楽:ニーノ・ロータ / 出演:アンソニー・クインジュリエッタ・マシーナ、リチャード・ベースハート、アルド・シルヴァーニ、マルセーラ・ロヴェーレ / 配給:イタリフィルム×NCC

1954年イタリア作品 / 上映時間:1時間48分 / 日本語字幕:吉岡芳子

1957年5月25日日本公開

2009年2月20日映像ソフト日本最新盤発売 [DVD Video:amazon]

第2回午前十時の映画祭(2011/02/05〜2012/01/20開催)《Series2 青の50本》上映作品

TOHOシネマズ六本木ヒルズにて初見(2011/11/28)



[粗筋]

 海辺の村に暮らす、知恵遅れの娘ジェルソミーナ(ジュリエッタ・マシーナ)の家に、大道芸人のザンパノ(アンソニー・クイン)が現れた。かつて彼はジェルソミーナの姉・ローザを買っていったが、ローザが死んだために、代わりにジェルソミーナを求めに来たのである。一家に父親はなく、母はジェルソミーナのために支払われた金と、口減らしが出来ることを喜んだ。

 こうして、ジェルソミーナの旅暮らしが始まった。仕込まれた拙い芸で客を喜ばせることは好きだが、必要以外の言葉を発せず、暴力的に彼女を扱うザンパノに対して、ジェルソミーナは恐怖と嫌悪感を抱いている。ジェルソミーナを対外的には女房として紹介しておきながら、彼女の目の前で女を誘い、ジェルソミーナを道端に一晩待ちぼうけにして平然としている彼に、嫌気を覚えながらも、家の窮状も承知しているジェルソミーナは、ただ従うほかなかった。

 あるとき、とうとうジェルソミーナは我慢の限界に達し、脱走を試みる。町でほかの大道芸人が演技するのを眺めてはしゃいだりもしたが、路銀などなく、自らの脚以外に移動手段のない彼女はあっさりザンパノに見つかり、連れ戻されてしまった。

 更に旅を続け、ザンパノはある町で、ちょうど興行を打っていたキリン・サーカスに一時的に加わることになる。そこでジェルソミーナは、先日の逃亡中に、綱渡りの芸を披露していた男――通称“奇人”(リチャード・ベースハート)と再会した。この“奇人”はザンパノとも旧知の間柄らしいが、どんな因縁があったのか、ザンパノは彼を忌み嫌い、“奇人”はそんな芸人をからかって愉しんでいるらしい。

 ザンパノはジェルソミーナが他人と交流し、新しいことに関心を持つことを良しとしなかったが、“奇人”はお構いなしに、自らの芸に参加させようと試みる。だが、その結果、ザンパノは騒動を引き起こしてしまい、警察に連行されてしまう……

[感想]

 この映画の良さを説明するのは、けっこう厄介な気がする。

 決して派手でも華やかでもない。登場人物はどちらかと言えば凡庸――むしろ、これといった才能もない人々だ。ヒロイン格のジェルソミーナにしたところで、芸達者でもなければ、作中ザンパノがあっさりと言い切るとおり、決して美人でもない。そのザンパノに至っては粗野で乱暴者、他の映画であれば悪役として最後には切り捨てられそうな人物像だ。

 ストーリーも、大きな波、明快な見せ場というものはない。ガジェットを巧みに利用したカタルシス、痛快な結末を欲して映画館に足を運ぶような人にはまず間違いなく“退屈”のひと言で片付けられてしまうだろう。

 だが、それでも本篇には不思議な魅力が漲っている。理屈を超える――というには実のところ非常に精緻なプロットを備えているのだが、しかしその構造を活かしているのは、非常に限定された登場人物、映像の存在感、生命力であるように思える。

 口数は少なく暴力的、とうてい感情移入の出来ない人物像ながら、ザンパノが主人公として成立しているのは、彼がとても人間的であるからだ。作中、あまり知恵の回らないジェルソミーナから「たまには考えて」と罵られるくらい思慮の浅い人物だが、確かにこういう人はいる、と感じさせる。物語の途中で共感を抱くことは難しいが、その生き方、人柄を理解することは容易い。

 そして、ジェルソミーナだ。彼女の描写は、知恵遅れの娘だから、と決して軽んじて描かれていない。経済観念はあるし、嫌なものは嫌だ、と思う、ごく真っ当な感覚を持つ人物として表現されている。そして、そのうえでいっそ愚かに思えるほど、生活のなかに光を見出そうとしている。たまたま行き会った幼い女の子と戯れ、旅の空であるにも拘わらずトマトの種を植える。拙いなりに芸に熱意を示し、ザンパノと掛け合いをするくだりには、観ていてふと胸が熱くなりさえする。

 物語のなかでザンパノが見せる行動はほとんど褒められたものではない。金でジェルソミーナを買い、ほとんど奴隷も同様に扱い、終盤では明らかに罪を犯している。ジェルソミーナの無垢な心に触れて改悛する、といった有り体(で軽薄)なドラマのような筋書きを選ぶことはない。

 だが、だからこそ、ジェルソミーナが“奇人”との触れ合いで得た、一種の“悟り”の境地が深い意味を持つ。彼女が最後の場面で見せた表情が鮮烈に印象に残り、そしてあの結末の情感を募らせているのだ。

 決して聖人君子ではないから、変化を経ても真っ当な人間になれるわけではない。それでも、あの整然とした道程の果てに待ち受ける出来事には打ちのめされるほかないだろう。淡々とした、派手さのない筋運びのなかで、しかしそこへとしっかり心情的な伏線を張り巡らせ、しかもラストシーンでもっと飾ることが出来たはずなのに、敢えて表情だけで描いた、その匙加減が秀逸だ。

 物語が本質的に備える膨らみ故なのか、決して美男美女が出揃っているわけでなく、景勝地を訪れているわけでもない――文脈のなかでローマに入っていることは窺えるが、代表的な観光地に赴くわけでもない――にも拘わらず、不思議なほどに映像も美しい。さり気ない仕草、表情を丹念に捉え、丁寧に織りこんでいるからこそ、物語と映像とが不可分に結びつき、脳裏に刻まれるのだろう。

 いくら言葉を尽くしても、この作品の魅力は伝えきれないように思えてならない。これは本当に、文字通りの“名画”なのだ――観て、感じてもらわねば語りようがない。

関連作品:

アラビアのロレンス

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