『ローマ法王の休日』

TOHOシネマズシャンテ壁面ポスター。

原題:“Habemus Papam” / 監督:ナンニ・モレッティ / 脚本:ナンニ・モレッティ、フランチェスコ・ピッコロ、フェデリカ・ポントレモーリ / 製作:ナンニ・モレッティ、ドメニコ・プロカッチ / 撮影監督:アレッサンドロ・ペシ / 美術:パオラ・ビザーリ / 編集:エズメラルダ・カラブリア / 衣装:リナ・ネルリ・タヴィアーニ / 音楽:フランコ・ピエルサンティ / 出演:ミシェル・ピコリ、イエルジー・スチュエル、レナート・スカルパ、ナンニ・モレッティマルゲリータ・ブイ、フランコ・グラツィオーシ、カミーロ・ミッリ、ロベルト・ノービレ、ウルリッヒ・フォン・ドーブシュッツ、ジャンルカ・ゴビ、ダリオ・カンタレッリ / 配給:GAGA

2011年イタリア、フランス合作 / 上映時間:1時間45分 / 日本語字幕:岡本太郎

2012年7月21日日本公開

公式サイト : http://romahouou.gaga.ne.jp/

TOHOシネマズシャンテにて初見(2012/07/23)



[粗筋]

 ローマ法王が逝去した。ヴァチカン市民、ひいては世界中の信者たちの哀しみが未だ癒えぬ中、慣例に従い、システィーナ礼拝堂にて法王選挙=コンクラーヴェが実施された。

 幾度も繰り返された投票の末、誰もが「出来れば自分以外が選任されてくれ」と願う重責を担うこととなったのは、メルヴィル枢機卿(ミシェル・ピコリ)である。大聖堂のバルコニーから、信者への祝福を行うべく、代表が促したそのとき――メルヴィル枢機卿は号泣した。

「私には無理だ! こんな大役、務まらない!!」

 発表間際になって新法王が祝福を拒絶し、部屋に引き籠もる、という一大事に、枢機卿たちは動揺する。報道官(イエルジー・スチュエル)が外部に対して「新法王は責任を受け入れるべく、祈りを続けている」と釈明して発表を引き延ばし、一方でローマ屈指の精神科医(ナンニ・モレッティ)を密かに招いてカウンセリングを行う、という前代未聞の対処を試みた。

 精神科医にとっても興味深いケースだったが、しかし如何せん、発表前であるために法王の素性を訊ねることは出来ず、しかも他の枢機卿たちが見つめる中でカウンセリングを行わねばならない、という状況ではまともに仕事も出来なかった。秘密を知ってしまった精神科医を、枢機卿たち同様に礼拝堂の宿舎に閉じ込める一方、報道官は素性を知らない精神科医に診察させるために、法王を秘密裏に連れ出す、という苦肉の策を選択する。

 女性の精神科医(マルゲリータ・ブイ)は閉じ込められた精神科医のもと妻で、才能はあるが、さすがに1回の訪問でメルヴィル新法王の心の問題を解決することは出来なかった。悄然と診療所を出、少し歩きたい、という新法王の気持ちを報道官は尊重したが、直後、一瞬の隙をついて、新法王は姿を消してしまう――

[感想]

 選出されたローマ法王が脱走する、という着想もさることながら、本篇は観終わったときの衝撃もまた前代未聞だ。あまり詳しくは述べないが、しばし呆気に取られること請け合いである。

 観終わった直後はしばし戸惑いを覚えるかも知れないが、しかしよくよく冷静に吟味すると、本篇の主題は終始ぶれていない。本篇は、カトリックという信仰の中枢を担う枢機卿、その中から選抜される法王といえども、あくまで人間である、という視点を貫いてドラマを築いている。

 そして、その描き方は基本的にひたすらコミカルだ。悲愴な前法王の葬儀のシーンこそ実際の映像を拝借して厳かに描写されるが、そのあと、礼拝堂へ枢機卿たちが移動するシーンでは、聖人の名前をど忘れしたのか、いちど行進を止めて考えるくだりがあるし、いざ投票、という場面で枢機卿たちが見せる緊張は、その滑稽さがいっそ愛らしくさえある。

 枢機卿といえども人間である、ということは、法王が引き籠もり、失踪しているあいだの行動でも明瞭に表現されている。もう法王は決まったんだから観光に出かけてもいいでしょう、と暢気に現れる者もいれば、待機中延々とカードゲームに耽溺する。招かれた精神科医も機密保持のために礼拝堂の宿舎に留め置かれるわけだが、そんな彼もいつしか枢機卿たちに混ざって、しまいには盛大なゲームを催してしまう。報道官の策略により、新法王が礼拝堂から失踪している、と知らないから、とは言い条、その暢気さを眺めていると口許が綻んでしまう。

 題名に反して、法王の“休日”の様子は全体からすると意外に少なめの尺しか割いていない印象だが、しかしこちらで法王が経験する交流の巧みさも忘れがたい。

 ただ、“法王選挙”という重責から逃れた枢機卿たちと比べると、新法王の体験はほのかな笑いを誘うものの、かなり苦みが混ざっている。なかなか新しい法王が発表されないことに不安を募らせる市民の姿に法王が胸を痛める一方で、通り一遍の関心だけしか抱かない人々もいる。一夜の宿を得るために訪れたホテルでは、クロークの男性がこれといった罪悪感もなしに残酷なことを口にするし、法王についての詳細が未だに発表されない、というテレビのニュースに、目を向けるものもあればほとんど見向きもしないものもいる。そういう状況を、当の法王が間近で眺めている、というのが実にユニークでもあり、そしてほろ苦い。

 そうして終始、ペーソスを含んだ笑いを全篇にちりばめているのだが、たぶんそのつもりで身構えていると、ラストで二度ほど度胆を抜かれることとなるはずだ。このラストを見届けたひとは、作品に没入していればいるほどにポカーン、とするに違いない。

 ただ、よく考えると、この結末は一連の描写を踏まえれば当然とも言えるのだ。あまり詳しくは触れないが――しかしいい加減、勘のいい方ならもう察しはついているだろうが――観終わったあと、よくよく考慮していけば、この締め括り以外には存在しない。

 穿った見方をすれば、本篇は「枢機卿だって人間なのだから、慎重を期して選んでいる以上、時間がかかるのはしょうがないよね」ということ、そして「だから、現実に選ばれた法王とは、最善の人材なのです」ということを訴えたいがために作られた、とも取れる――だからこそきっと、ヴァチカンは黙認したのではなかろうか。

 そして、本篇を観終わったあと、戸惑いを与える結末にもかかわらず、奇妙な心の平穏を感じるのは、全篇で描かれる“人間”としての枢機卿、法王の姿にリアリティを感じ、共感するからだろう。最初、ちょっと居心地の悪さを覚えるかも知れないが、きっとあとになって、暖かい余韻をもたらす、心地好くも深遠な作品である。

関連作品:

息子の部屋

家路 Je rentre a la maison

昼顔

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M:i:III

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ザ・ライト 〜エクソシストの真実〜

ローマの休日

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