『ザ・マスター』

TOHOシネマズシャンテ、施設外壁の看板。

原題:“The Master” / 監督&脚本:ポール・トーマス・アンダーソン / 製作:ジョアン・セラー、ダニエル・ルピ、ポール・トーマス・アンダーソン、ミーガン・エリソン / 製作総指揮:アダム・ソムナー、テッド・シッパー / 撮影監督:ミハイ・マライメアJr. / プロダクション・デザイナー:ジャック・フィスク、デヴィッド・クランク / 編集:レスリー・ジョーンズ、ピーター・マクナルティ / 衣装:マーク・ブリッジス / キャスティング: / 音楽:ジョニー・グリーンウッド / 出演:ホアキン・フェニックスフィリップ・シーモア・ホフマンエイミー・アダムスローラ・ダーン、アンビル・チルダーズ、ジェシー・プレモンス、ケヴィン・J・オコナー、クリストファー・エヴァン・ウェルチ / ジョアン・セラー/グーラルディ・フィルム・カンパニー/アンナプルナ・ピクチャーズ製作 / 配給:PHANTOM FILM

2012年アメリカ作品 / 上映時間:2時間18分 / 日本語字幕:松浦美奈 / R15+

第85回アカデミー賞主演男優・助演男優・助演女優部門候補作品

2013年3月22日日本公開

公式サイト : http://themastermovie.jp/

TOHOシネマズシャンテにて初見(2013/03/22)



[粗筋]

 第二次世界大戦のあと、海兵として従軍していたフレディ・クエル(ホアキン・フェニックス)は、郷里に戻らず、各地を転々としていた。百貨店で記念写真のカメラマンとして勤めたり、畑で農夫として稼いだり……だが、生来の気性の荒さに加え、戦争を経て繊細になってしまったフレディに、なかなか居場所は見つからなかった。

 ある夕暮れ、フレディは港に停泊していた船に密航する。目醒めると、彼は船室のベッドに寝ており、船の主に呼び出される。その人物はランカスター・ドッド(フィリップ・シーモア・ホフマン)といい、心理学者にして科学者、そして独自の理論に基づく“コーズ・メソッド”を提唱し、教団を設立、影響を拡大しつつある指導者であった。泥酔状態で彼と対面した際、フレディはお手製のカクテル“クール”をランカスターに振る舞ったようで、これがお気に召したランカスターは、フレディを自らの教団に招き入れる。

 ランカスターは“セッション”と呼ぶ手法で、相手の過去から前世の記憶までを掘り起こす手法によって、悩みや苦しみ、心の病までを癒すという。しばしば己の暴力性を抑えられなくなるフレディだったが、ランカスターとの交流を経て、次第に自分をコントロール出来るようになっていったことで、ランカスターへの依存を強めていった。対するランカスターは、自分に対して反抗的な批評家に鉄拳制裁を加えるフレディをいささか持て余しつつも、それによって教団に歯向かう者が減っているのも事実であるため、フレディを重用する。

 だが、フレディは未だに、本質的には不安定なままだった。ランカスターが詐欺容疑で逮捕されたとき、暴れ回ったフレディは、自分を牢から出すことの出来ないランカスターを罵倒する。やがて解放されたフレディに、ランカスターはより念入りな“治療”を施しはじめた……

[感想]

 ポール・トーマス・アンダーソン監督の前作『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』にもそういう傾向があったが、本篇はより如実に、“アメリカ”という社会のある一断面を切り取ったかのような内容だ。

 本篇の主人公フレディには、PTSDらしき傾向が窺える。いささか繊細で、思わぬきっかけから暴力性を示す。『ディア・ハンター』や『ランボー』で描かれた、戦場に身を置いたが故に心に傷を負った者の姿がちらついている。

 ただ、このフレディという男の性格は、決して戦争ばかりがすべての端緒ではなかった、という印象も受けるのだ。それは、ランカスターとの対話の中で取り沙汰される、故郷での淡い恋愛体験にも窺える。一見、フレディの純粋さを垣間見せるエピソードだが、しかしここで登場するドリスや、のちに姿を見せるドリスの母親との妙に緊張感のあるやりとりは、故郷にいた時点からフレディに奇矯な側面があったように思える。会話の中でだけ提示されたエピソードにも同様の印象があり、フレディが見せる直情性、獣性は、生来のものか、故郷において土壌が育てられ、それが戦場を体験したことでいよいよ制御不能になった。そう考えると、ますますフレディという人物像は、アメリカという風土のある際立った一面を象徴していると思えるのだ。

 敷衍すると、ランカスターもまた象徴的である。普段の言動は非常に礼儀正しく理性的、だが彼の論述には霊魂や前世記憶といった疑似科学的な単語がちりばめられ、彼が指導する組織で行われる“セッション”には洗脳の危うさがある。本質的には善良だが、ある領域を検証することなく掘り下げていき、先鋭化を辿った結果と思われるランカスターの価値観は、やはり実在するコミュニティ、あるいは新興宗教を想起させる。本篇は製作時点で、ハリウッドの大物も多数関わっていると言われる新興宗教を題材にしている、と噂され一部を騒然とさせた経緯があるが、観る限り、特定のいずれかを諷刺するようなものではなく、やはりその全体を象徴するような造形となっているようだ。

 アメリカという社会の、異なる側面をそれぞれ象徴するかのような人物が交流し、影響しあい、時として激情を叩きつけ合う。いずれも具体的な何かを取り沙汰しているわけではないだろうが、アメリカの歴史、地方文化において何が起きてきたのか、多少なりとも知識があると、そこに深意を垣間見てしまう。

 しかし本篇の製作者は恐らく、決してアメリカの文化を象徴する物語、と絞りこんで本篇を膨らましていったわけではないだろう。もしそうなら、結末なり過程なりに、もっと明瞭な象徴があって然るべきだ。

 恐らく本篇は、観る人観る人によっていくらでも解釈のしようがあるはずである。それは、中心にいるフレディとランカスターという人物像が、人間なら誰しも抱えている歪な部分を、あまりに丹念に際立たせて描かれているからだ。だからこそ、両者の言動や佇まいは、観ている者の記憶や経験、知識を喚起し、思索を促す。

 故に、物語として複雑な紆余曲折はない代わりに、彼らの交流、人物像や価値観を際立たせる描写は濃密だ。冒頭の、戦地でのフレディの振る舞いや、“セッション”におけるフレディとランカスターの交わす言葉、逮捕される前後の狂乱したやり取り。動機や背景を細々と語らない代わりに、それらを濃密に匂い立たせる。景勝地と呼べるようなロケーションはほとんどないのに、惹きつけて止まない構図の妙、台詞のひとつひとつだけでなく眼差しや仕草にも含みを感じさせる渾身の演技とが、見事に調和し、表現をより豊潤なものにしている。見た目や振る舞いは紳士だが、それでも多数の人間を惹きつけるカリスマをはっきりと感じさせる“マスター”を演じたフィリップ・シーモア・ホフマンは無論だが、捉えどころのない狂気に駆り立てられる“凡人”を圧倒的インパクトで体現したホアキン・フェニックスに拍手を贈りたい。

 漫然と観ていれば退屈だし、かといって真剣に取り組むと、気力を削られる。実に厄介な代物だが、しかしこの重量感はそう簡単に味わうことは出来ない。

関連作品:

ゼア・ウィル・ビー・ブラッド

容疑者、ホアキン・フェニックス

戦争のはじめかた

ダウト 〜あるカトリック学校で〜

スーパー・チューズデー 〜正義を売った日〜

人生の特等席

ディア・ハンター

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