原題:“Les Dimanches de Ville D’avray” / 原作:ベルナール・エシャスリオー / 監督:セルジュ・ブールギニョン / 脚本:セルジュ・ブールギニョン、アントワーヌ・チュダル / 台詞:セルジュ・ブールギニョン、ベルナール・エシャスリオー / 製作:ロマイン・ピネス / 撮影監督:アンリ・ドカエ / プロダクション・デザイナー:ベルナール・エヴェイン / 編集:レオニド・アザール / 音楽:モーリス・ジャール / 出演:ハーディ・クリューガー、パトリシア・ゴッジ、ニコール・クールセル、ダニエル・イヴェルネル、アンドレ・オウマンスキー / 配給:東和 / 映像ソフト発売元:紀伊國屋書店
1963年フランス作品 / 上映時間:1時間51分 / 日本語字幕:小林ユリエ
1963年6月15日日本公開
2010年6月26日映像ソフト日本最新盤発売 [DVD Video:amazon]
第2回午前十時の映画祭(2011/02/05〜2012/01/20開催)《Series2 青の50本》上映作品
TOHOシネマズ六本木ヒルズにて初見(2011/05/12)
[粗筋]
ピエール(ハーディ・クリューガー)は飛行機事故の影響で記憶を失った。行き場さえもなくした彼は、治療中に知り合った看護婦マドレーヌ(ニコール・クールセル)のもとに身を寄せ、カルロス(ダニエル・イヴェルネル)という芸術家の手伝いと、駅で電車を眺めることで1日を潰している。
ある日、電車から降りてきたひと組の父子が、ピエールに全寮制学校への道を訪ねてきた。生憎ピエールは知らず、そう答えるとふたりはホームを出て行ったが、父親と話しているうちに娘(パトリシア・ゴッジ)が泣き出すのを見て、ピエールは思わずふたりを追ってしまう。やがて父子は全寮制学校に着くが、父親は娘を預けると、逃げるように立ち去ってしまった。
道中の会話と、父親が学校の前に置いていった荷物から、彼が娘に「日曜日には来る」と口では約束しながら2度と来るつもりがないことを察知したピエールは、その次の日曜日、思いあまって学校を訪ねていた。
学校のシスターはピエールを父親と勘違いし、待ちぼうけを食わされていた少女と引き合わせる。フランソワーズと呼ばれた娘も、見覚えのあるピエールを父からの使いだと誤解して喜んだ。
真実を伝えられ、いちどは嘆いたフランソワーズだったが、わざわざ様子を見に来てくれたピエールに心を許し、父の代わりに日曜日ごとに逢いに来てほしい、と請う。折しもマドレーヌが多忙により日曜日も出勤するようになっていたため、ピエールはその願いを受け入れた――
[感想]
記憶障害を扱った映画は数多あれど、本篇のような切り口はたぶん非常に稀有だ。
作中、失われた過去について詳しく言及する場面はない。どうしてピエールがフランソワーズという少女を気にかけたのか、その理由らしきものはプロローグ部分で仄めかされているが、作中で明確に繋げられているわけではない。ゆえに、過去の謎解き、贖罪といった考えについては一切触れられないのだ。
本篇での記憶障害は、過去との関わりの持ち方を題材とするのではなく、過去を失ったことで精神的に子供のレベルに戻ってしまった男、という人物像を実現するために用いられている。そうして生まれた、身なりは三十代の大人だが心は極めて子供に近い人物、という設定が、本篇の不思議な輝きも不幸も同時に生み出している。
傍目には三十を超えた男が、いとけない少女と毎週のように逢瀬を繰り返していれば、事情を知らない者の目から見れば不審な行動に映るのは当然のことだ。ピエールが頻繁に訪ねる芸術家の妻や、恋人(というより保護者と言うべきかも知れない)マドレーヌの同僚である医者のように、彼の過去を知っている者でさえも、彼が“病気である”という一点からこの交流を胡乱に感じてしまうのも、ピエールとフランソワーズのやり取りを知っている観客からすれば理不尽に思えても、仕方のない部分なのだ。そうした、実態と周囲の理解との乖離が、最後の逃れようのないドラマを生み出している。
だが本篇の儚い美しさには、ピエールと心を通わせるフランソワーズという少女の設定も貢献しているのだ。父親からも母親からも見捨てられた少女は、一見無邪気な態度でピエールに接し、彼を一種おままごとのような世界に導いていくが、だがその言動の随所には老成したものが垣間見える。とりわけ、子供ながらにピエールの関心を誘おうとする振る舞いなど、彼女は己の境遇がどういうものか十分に承知したうえで行動しているふしがあるのだ。
そのフランソワーズの、ピエールへの態度が、ある部分から少し変化している。公園で、フランソワーズが他の子供たちと共に遊んでいると、ピエールがやって来て、彼女にくっつきすぎている、とひとりの男の子を平手打ちする場面だ。のちの出来事にも結びつくこの描写は一方で、ピエールが一見成人男性に思えても、その本質が子供に戻っていることを、観客のみならずフランソワーズにも悟らせる。ピエールとフランソワーズの目線の高さが一致したのはここから先であり、ふたりの交流はこのあとから本当に美しさと切なさを帯びていく。
本篇の絶妙なところは、最終的にピエールとフランソワーズの交流の意味を理解する人物が現れることだ。それがクライマックスの情感に繋がっていくため、ここでは詳述せずにおくが、絶妙な人物配置がもたらす静謐な哀しみは、最後にフランソワーズが放つ台詞と相俟って、忘れがたい余韻を残す。
……何にしてもこの作品は、言葉にして説明しようとすると、その感動が逃げてしまうような気がして、どうにも語りにくい。技術的には上に記したように私は解釈したのだが、正直こんな考察を施すよりは、実際に触れて、その美しさ、切ない感動に触れていただくのがいちばん早いように思う――それ故に、この魅力を後世の人にも知って欲しいと願う人々の手でいつまでも語り継がれそうな気のする、密やかな名品である。
関連作品:
『愛のそよ風』
『I am Sam』
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