『ファーザー(2020)』

TOHOシネマズシャンテが入っているピル外壁にあしらわれた、『ファーザー(2020)』キーヴィジュアル。
TOHOシネマズシャンテが入っているピル外壁にあしらわれた、『ファーザー(2020)』キーヴィジュアル。

原題:“Father” / 監督&原作:フロリアン・ゼレール / 脚本:クリストファー・ハンプトン、フロリアン・ゼレール / 製作:フィリップ・カルカソンヌ、ジャン=ルイ・リヴィ、デイヴィッド・パーフィット / 撮影監督:ベン・スミサード / プロダクション・デザイナー:ピーター・フランシス / 編集:ヨルゴス・ランピノス / 衣装:アナ・メアリー・スコット・ロビンス / ヘア&メイクアップデザイン:ナディア・ステイシー / 音楽:ルドヴィコ・エイナウディ / 出演:アンソニー・ホプキンス、オリヴィア・コールマン、マーク・ゲイティス、オリヴィア・ウィリアムズ、イモージェン・プーツ、ルーファス・シーウェル、アイーシャ・ダーカー、ローマン・ゼレール / 配給:Showgate
2020年イギリス、フランス合作 / 上映時間:1時間37分 / 日本語字幕:松浦美奈
第93回アカデミー賞主演男優賞、脚色部門受賞(作品、助演女優賞、美術部門、編集部門候補)作品
2021年5月14日日本公開
公式サイト : https://thefather.jp/
TOHOシネマズシャンテにて初見(2021/6/24)


[粗筋]
 アンソニー(アンソニー・ホプキンス)はロンドンに購入したフラットでひとり暮らしをしている。娘のアン(オリヴィア・コールマン)は離れたところで生活し、ときおり様子を見にやって来る。だが、アンソニーが3人目の介護人を追い出してしまった直後、アンはもうすぐロンドンを離れる、と告げた。新しいパートナーとともに、パリに移住するというのである。週末には様子を見に来る、と言うが、アンソニーの感情は揺さぶられた。
 娘が去ったあと、ひとり寛いでいたアンソニーは、フラットのなかで奇妙な物音を耳にする。恐る恐るリヴィングに向かうと、そこには我が物顔でソファに腰掛ける、見知らぬ男がいた。アンソニーが誰何すると、その男はアンと結婚して10年経っており、このフラットもアンと夫のものであるという。困惑するアンソニーをよそに、アンの夫を名乗る男はアンらしき相手に電話をかけた。
 間もなく。玄関のドアを開ける音がした。アンソニーがそちらに向かうと、しかしそこにいたのは、アンソニーの見知ったアンとは似ても似つかぬ女だった。だが、女は自分がアンだと言い張る。その一方でこの新たなアンは、夫とはとっくに離婚している、という。事実、先ほどまで部屋にいたはずの“夫”の姿はもうどこにもなかった――


[感想]
 個人的に、本篇はなるべく情報のない状態でいちど鑑賞していただきたい。そして、そのうえでもういちど、2度と繰り返し観て、その表現の深みを味わうのが最善だと思う。もし未見のままこの記事に触れているなら、いいからさっさと一回観てくれ、と訴えたい。
 それでも私の見解を知りたい、という奇特なかたのためにもう少し綴るが、それでもいちばん肝心なところは、せめて漠然としたイメージのままで観ていただきたいので、最も肝要なフレーズは伏せたまま記そう――たぶん、それでも察しはつくと思うが。

 着想は極めてシンプルなのだ。だが、こういう角度から描こうとした作品は極めて稀有だろう。少なくとも私には、ほかに類例は思い浮かばない。
 従来はどうしても反対側から描かざるを得ないシチュエーションを、本篇では敢えて当事者の目線で表現を試みた。その発想を支えるために、緻密にイベントを組み立て、配置しており、脚本の企みの見事さにまず驚かされる。
 その発想を影で支えているのが美術だ。極めて丁寧に生活を再現した美術を、それぞれの場面で細かに調整を施し、室内の“表情”を変えていく。それが、主人公の覚える不安、第三者の視点にいる観客の覚える違和感を巧みに裏打ちするのだ。恐らく、物語の全体像を把握したあとでもういちど頭から鑑賞すると、この美術の効果はなおさら実感できるのではなかろうか。
 そして何よりもアンソニー・ホプキンスが素晴らしい。老いてなお矍鑠とし、理性的、論理的に語る主人公が、状況の変化につれて困惑し、感情的に掻き乱されていくさまを、恐ろしいほどのリアリティで演じている。本篇で描かれる出来事は誰にとっても決して他人事ではないが、観る者を惹きつけ、共鳴させ、気づけば同じ目線からその世界を見せてしまう技術は驚異的だ。
 むろんアンソニー・ホプキンスの力だけで成立しているわけではない。娘を演じたオリヴィア・コールマンの、序盤はどこか謎めきながら、しかし終盤、決して多くを語ることなくその心情を窺わせる抑制の利いた演技と、そもそもの脚本のクオリティ、それを活かす美術や、冒険はしないが的確なカメラワーク、など監督はじめスタッフの呼吸が見事に揃っていることも確かだ。しかし、間違いなく本篇を語る上でアンソニー・ホプキンスの存在は切り離せないし、その素晴らしいキャリアにおいても本篇が代表作となる、ということも疑いを容れない。
 誰にでも起きうることを、極めて制限された舞台とキャストで、サスペンスすら盛り込んで描き、終盤には昂揚感と、喪失感に不思議な充足感すら滲ませた、得も言われぬ余韻を醸成する。この題材を、思索的でありながらエンタテインメントの味わいすら添えて整えたことに驚嘆するほかない。
 仔の物語の本質は、誰にとっても無縁ではない。だからこそ、そのクオリティの高さが実感できる、稀有な名作である。


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コメント

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