江戸川乱歩が自身初の長篇本格探偵小説として連載を始めながら、連載3回で中絶してしまった幻の作品『悪霊』に、芦辺拓が大胆な仮説により提示された謎を解き明かしながら、更に「なぜ『悪霊』は未完で終わったか?」という、より大きな謎へも挑んだ意欲作。
全集などで引用されているため、探偵小説を好む読者なら、『悪霊』の発表部分と、忸怩たる思いの籠もった詫び文まで読んでいると思うが、これに加筆して解決まで導く、というのはだいぶ難儀なことだ。何せ連載は最初の異様な密室殺人と、降霊会めいた催しで新たな殺人が示唆されたところで終わっており、全体像を考えれば序盤に過ぎない。“本格探偵小説”として構想していたからには、恐らくこの時点で既に何らかの伏線が張られていたはずだから、それらしき真相は描きうるだろう。また、乱歩は構想の断片を語っていたことから、実はそれなりに読んでいるひとなら犯人は知っている。
しかしそこは芦辺拓、きちんと乱歩が当初に用意していた、と考えられている構想に寄り添いながら、更なるツイストを加えている。発表済のテキストの内容を、眼光紙背に徹す、とばかりに深く考察し、もしかしたら実際に逢ったかも知れない、乱歩の執筆と中断に至る経緯まで作品の一部にした。『悪霊』執筆当時、本格探偵小説を志向しながらもなかなか実作に結びつかなかった乱歩の苦衷に想いを寄せ、それすらも物語に盛り込みながら、入り組んだ“本格ミステリ”へと昇華させる手管は、まさに芦辺拓の真骨頂だ。
本篇には、『悪霊』の未発表部分に擬した箇所もあるが、さすがにここは割と区別がつきやすい。第3回までのテキストが、昭和8年の東京で生活する人物がリアルタイムの街を描写している感覚が伝わるのに対し、書き足された部分は後世の人間の視点から、当時を知らない読者に向けて説明しようとする配慮が覗いてしまっている。作中の設定からすると、それも決して不自然ではないのだが、第3回までの文章とのあいだに、知識の質の違いが感じられるのは致し方ないところだろう。
ただそれも、芦辺拓という作家性の発露でもある。以前から先達の魅力溢れる作品群に敬意を表し、その作品世界を敷衍したパスティーシュを執筆しており、そのために数多の資料、文献に接している。そこから得、感じ取った空気感を、読者にも共有してもらいたい、というのは、芦辺拓の作家性であり、サーヴィス精神そのものだろう。そこが発揮されているからこそ、本篇は江戸川乱歩作品に基づきながらも、明確に芦辺拓の作品である、と言い切れる。
終盤の論理展開の密度が高すぎて、漫然と読んでいると理解が追いつかなくなるが、四六判上製の体裁で本文ほぼ200ページ足らず、という尺ながら極めて読み応えのある1冊となっている。乱歩作品の愛読者がみんな納得する、とは断言しかねるが、芦辺拓作品に親しんできたひとならば間違いなく満足感は高い。推理し、創造する楽しさに彩られた作品である。
……なお、ここで感想を記す際、なるべく著者や作者を呼び捨てにしたくないため、なるべく“著者”“作者”などと記すように努めているが、今回に限り、共作者ふたりとも呼び捨てで記している。ひとくくりで“著者”と呼んでは、原型となった乱歩の作に本来籠められていた構想に対しても、それを大きく膨らませ、乱歩に敬意を表しつつも自らの作家性を存分に発揮した作品へと昇華させた芦辺拓にも失礼、と考えたからだ。
実は私、芦辺拓公式サイト扱いとなっている《芦辺倶楽部》の管理人を長年務めているくらいで、こういう書き方に正直、無茶苦茶恐縮している。でも苦慮したうえでこの選択なので、勘弁してください(どこへとも知れず漠然と叩頭)。
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