Bunkamura ル・シネマのロビーに展示された『セールスマン(2016)ポスター
英題:“The Salesman” / 監督&脚本:アスガー・ファルハディ / 製作:アスガー・ファルハディ、アレクサンドル・マレ=ギィ / 撮影監督:ホセイン・ジャファリアン / 美術:ケイヴァン・モガダム / 編集:ハイデー・サフィヤリ / 衣装:アイラー・ベーザディ、サラ・サミイー / 音楽:ホジャト・ハッサンプール、サッター・オラキ / 出演:シャハブ・ホセイニ、タラネ・アリドゥスティ、ババク・カリミ、ミナ・サダティ、ミラル・バニ・アダム、サーラ・アサドラヒ、ファリド・サッジャディ・ホセイニ、メヒディ・コウシュキ / 配給:DOMA Inc.×STAR SANDS
2016年イラン、フランス合作 / 上映時間:2時間4分 / 日本語字幕:齋藤敦子
2017年6月10日日本公開
2018年1月10日映像ソフト日本最新盤発売 [DVD Video|Blu-ray Disc]
公式サイト : https://starsands.com/thesalesman/
Bunkamura ル・シネマにて初見(2017/6/13)
[粗筋]
学校で国語教師をしながら、俳優兼演出家として活動するエマッド(シャハブ・ホセイニ)と、その妻であり同じ舞台に立つ俳優のラナ(タラネ・アリドゥスティ)はある日、住居を奪われた。隣接する敷地の工事の影響で暮らしていたアパートが損傷を受け、居住不能になってしまったのである。
ひとまず回収できる限りの荷物を回収し、間もなく公演を始める劇場にいったん退避させたが、「このままでは劇場に寝るしかない」とエマッドが嘆くと、共演者で友人のババク(ババク・カリミ)が自身の所有するアパート最上階にある部屋が空いたので貸そう、と持ちかけてきた。
喜んで移住を決めたエマッドとラナだったが、いざ荷物を搬入したところ、浴室や個室のひとつに他人の荷物が残っている。前の住人がいまだ新しい住居を見つけておらず、いずれ引き取りに行くまでそのままにして欲しい、と言っているらしい。どうやら前の住民と家主であるババクは揉めている模様で、エマッドは荷物の引き取りを急がせるよう頼むが、他人の荷物はなかなか撤去される気配がなかった。
ある日、エマッドは自宅に向かう階段の途中に血痕や、何かしらの騒動の痕跡が残っていることに気づく。急いで部屋に飛び込むと、そこにラナの姿はなく、浴室にも血の流れたような痕跡が残っている。ようやく発見したラナは、病院にいて、惨たらしい傷の治療を受けていた。
ラナはエマッドの留守中、チャイムを鳴らしたのが夫だと思い込み、玄関のドアを開けたまま浴室にいた。そこへ踏み込んできた何者かに襲われたのだという。悲鳴を聞きつけた隣人によって病院に担ぎ込まれ、エマッドが帰宅したのはそのあとだった。
夫妻が直面したのは、警察に通報するか、という問題だった。イランの社会では警察の信頼性は低く、夫妻の周囲でも意見が分かれている。エマッドは犯人を捕らえるため警察に連絡するべきだ、と考えるが、ラナは警察に自らを襲った出来事を詳らかに語ること嫌悪し、事実が知れ渡ることでイスラム社会から忌避されることを恐れていた。この深刻な食い違いは、ふたりが出演するアーサー・ミラーによる戯曲『セールスマンの死』にも影響を及ぼし、夫妻のあいだにも溝を生み出していく……。
[感想]
イランを舞台にした作品は興味深い。決して日本人や欧米人と大きな違いのない生活ぶりや家族、友人、共同体での関係性を窺える一方で、戒律の厳しいイスラム教国家、そして表現規制の強い社会における表現の難しさをかなり如実に感じられる。字幕制作のハードルの高さや、決して多くの観客を惹きつけるものではないので、一般公開されるのはどうしても国際的な知名度の高さと安定した質を保つアスガー・ファルハディ監督作品など限られたものになり、あとは映画祭において数回きりの上映が実施されるものをチェックするしかないのだが、それゆえに観るほどに発見は尽きない。
本篇にしてもそうだ。冒頭、隣接する土地の工事の影響でアパートが損壊し居住不能になる、という出来事にいささか度胆を抜かれるが、そうして家を逐われたとしても、住む場所は必要であり、日々の活動を疎かに出来ないのはやはり一緒だ。友人が営むアパートに移ると、前の住人の荷物がまだ残ったままになっていて、ペントハウスのように最上階に設けられた部屋の外に出して引き取りを待つ、という、大らかとも杜撰とも言える対応も日本では考えにくいものの、そこから国民性の大らかさ、制度の緩さも垣間見えるようだ。
しかし本当に衝撃的なのは、妻ラナが悲劇に見舞われてから、である。こうした状況で襲われる危険は、どんな国でも起きて不思議はない――セキュリティの程度にもよるだろうが、一定の規模の都市を要する匡なら多少は装幀の出来るケースだろう。だが、そこで対処として“通報するか、否か”がここまで悶着の種になるのは、厳格なイスラム国家ならではだ。
イスラム国家では女性が肌を露わにすることを良しとしない。近年では国によって捉え方も違うようだが、少なくともイランでは厳格で、表現にも規制がかかっている。本篇よりのちに制作された『聖地には蜘蛛が巣を張る』は、この規制を免れるために、製作そのものがヨーロッパ各国の主導で行われ、規制の少ない国にわざわざ似たロケーションを探して撮影している。
たとえ性に対して、より寛容な国であったとしても、性被害に遭った人物を世間の好奇心と無理解が傷つけることは今でも絶えず、その扱いはまだまだ議論を要するものになっている。だが、イランではより過酷であることが、本篇の描写からも察せられる。夫エマッドは警察に通報するべきだ、と考えるが、当の被害者であるエマが拒否するのは、その問題の根深さを物語っている。
価値観ゆえに、貞節を傷つけられたことには必ずしも同情が寄せられるばかりではなく、奇異の眼差しもまた向けられる。それどころか、「彼女のほうから男を誘った」というあらぬ疑いをかけられることもあり得る――事実、他ならぬエマッド自身がその疑念に駆られるほどなのだ。また、いくら善意をもって接する人物であったとしても、そこに忌避の感情が少しでも生まれれば、エマは共同体から孤立していく。そうした理不尽な恐怖が、エマに真実の追究を躊躇わせる。更に、警察の能力に対する不信感まで絡んでくるのだから状況は厄介だ。
この、様々な社会問題、感情が入り乱れた中で、本篇は表面的には淡々と、しかし事件発生以降は終始ヒリヒリとした空気感が持続する。夫と妻、それぞれの苦悩が、表面的に続けようとする日常に少しずつ影響を及ぼし、痛々しい。前述した通り、性描写に対して厳しい規制のあるイランで撮影されているがゆえに、“被害”の現場が描かれることはむろん、受けた肉体的な傷の詳細にすら触れていないが、それが余計に夫の感じる疑念が深まってしまうのも、観客には伝わるのだ。優れた映像作家の撮影すら閉め出すようなイランの規制下にあって、その枠組に収めながら枠組そのものへの問題提起を試みるあたりが実にしたたかだ。
しかも本篇はそこで終わらない。ラナが深入りしたがらない一方、エマッドは残された手懸かりをもとに、執拗に犯人を追い求める。どう考えても危険な行為と、あまりにも思い込みに振り回された追跡っぷりにもヒヤヒヤさせられるが、ここにも意外な仕掛けが組み込んである。ギリギリまで予断を許さない展開に振り回された挙句に、エマッドが下す決断もまた、ラナが被害に遭った際の決断と同様に観る者に重い問いかけを残す。しかも、このエマッドの決断もまた、イランという社会の宿痾を反映しながら、同時にどんな文化でも、どんな共同体であっても陥る危険のあるジレンマが潜んでいるのだ。
本篇はアスガー・ファルハディ監督に2度目となるアカデミー賞外国語映画賞という栄誉を齎した。ただ、この年のアカデミー賞は過激な政策を打ち出し続けていたドナルド・トランプ大統領(当時)に対する映画業界の強い反発が少なからず影響しており、率直に言えばいささか冷静さを欠いた回であった。個人的にも、先行してオスカーに輝いた『別離』のほうが、より身近でなおかつ多くの人間にとって無縁ではない出来事を採り上げ深いドラマに仕立て上げた、という点で高い評価をつけるのだが、本篇が優れた映画であることもまた確かだ。ラストシーン、一見しただけなら本来の日常に回帰したかのように映るふたりの表情が滲ませる憂鬱はあまりにも深い。
イランという社会の本質を探りながらも、普遍的な問いを投げかける傑作である。
関連作品:
『彼女が消えた浜辺』/『別離』
『友だちのうちはどこ?』/『メルボルン』/『ウォーデン 消えた死刑囚』/『白い牛のバラッド』
『グラン・トリノ』/『瞳の奥の秘密』
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